戦争遺跡のご紹介やホームページの制作状況などを綴っていきます♪

総軍BLOGへようこそっ!

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祐実総軍三等兵

Author:祐実総軍三等兵
全国に残る戦争遺跡を探訪して
記録することを生き甲斐とする
祐実総軍三等兵でございます★
稚拙な内容ではございますが、
これまで調べてきた戦争遺跡を
ブログ・ホームページで紹介を
させていただいておりますっ♪

よろしくお願いしますm(__)m

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皆様、こんばんわ m(_ _)m


いや~、今日は寒いっ!
あまりの寒さに、エアコンと
セラミックヒーターを交互に
付けたり消したりと・・・。

胃を悪くしたもんだから
少し痩せましてね・・・
脂肪があまりないので
余計に寒く感じます(笑)


さて・・・本日は祐実軍團「軍報」の
第133弾といたしまして
神奈川県茅ヶ崎市に掘削された
陸軍第三一六師団の抵抗拠点陣地を
OKN先生からの提供写真で
ご紹介させてくださいませ↓

※OKN先生からの提供写真です。



陸軍第三一六師団は、
1945年(昭和20) 6月に東京で開設された
特設師団で、第一総軍の
第十二方面軍に所属していた
第五十三軍の隷下部隊です。

日本の敗戦をほぼ決定的にした
1944年(昭和19) 6月の
マリアナ沖海戦の敗退によって
アメリカ軍は「コロネット作戦」と
呼ばれる日本本土への上陸作戦を
計画します。

その内容は、相模湾と千葉県の
九十九里浜より上陸して、
東京に攻め入るというもので
これに対し日本軍は「本土決戦作戦」を
計画し、第五十三軍は相模湾から
上陸された場合に備えて
沿岸の防備を担当し、その中で
第三一六師団は相模川の東より
藤沢に至る地域の防衛にあたりました。

当初、第五十三軍の防衛方針としては、
藤沢の鎌倉山と大磯の千畳敷山・
伊勢原の大山に 3大拠点を設け、
これらの中間にあたる地域には、
海岸より 3km~ 5km離れた後方の
丘陵部に抵抗拠点陣地を設け、
拠点火砲網を突破し上陸した敵を
中間部が撃滅する「後退配備」がとられ、
茅ヶ崎に関しては芹沢・香川・行谷・
赤羽根地区に、洞窟式の陣地が
構築されました。

しかし、海岸沿いでの決戦を重視する
作戦に変更されたため、
急遽、海岸から 1km程の水際まで
主陣地を移す作戦(水際作戦)に
変更されました。

この作戦は、敵が火砲網を
突破した場合は、海岸に向かって
一斉に飛び出して刺し違えると
いったものだったそうで、
敵弾はもちろん、友軍の砲弾まで
浴びてしまい戦死は免れず、
実際にそうなった場合は戦闘も
20分持たないと予想されたようです。

第五十三軍は複数の部隊が
隷下におかれていましたが、
特に第三一六師団は、
作戦の中心におかれていたため
「はりつけ師団」と呼ばれたそうです。

第三一六師団が守備を予定していた
洞窟陣地は現在も山林に残っており、
崩落が著しいですが一部は
見学が可能です。



いにしえのメンバー方とともに
茅ヶ崎市内にお邪魔しております↓

※OKN先生からの提供写真です。

茅ヶ崎市内の探訪は、
都合2回行っておりますが、
初回は、幹事の私が
「休日出勤」を理由に
ドタキャンしました・・・。

ちょうど、この時からです。
大した金も払わないくせして
休みの日まで会社に
「拘束」されることに「違和感」を
覚えはじめたのが。

当然、この会社は辞めました。
辞めて「大正解」でしたが。

こういった経緯から、
三等兵は2回目からの参加ですが
残念ながら、その2回目に撮った
写真をPCのクラッシュによって
全て失ってしまいました・・・

千葉市内に続いて、茅ヶ崎市も
「鬼門」なのかな・・・(笑)


話が脱線してしまいましたが、
1つ目の陣地は酒蔵の敷地の
裏手に位置しているので
外観を見るだけにとどめました↓

※OKN先生からの提供写真です。


2つ目の陣地も残念ながら
大崩落しており、
外観を見るだけにしました↓


内部を確認する教導先生(笑)↓



3つ目の陣地は下寺尾地区に
位置しています↓

※OKN先生からの提供写真です。

陣地の規模は小規模ですが
階層構造となっており、
土製の階段が劣化しているため
非常に危険です↓


陣地の内部図です↓

ホームページへの掲載と同時に
 削除予定です。

坑道の総延長は33メートルを
計測しています。

googleマップにトレースすると
こんな感じになります↓

※このトレースは内示用ですので
 一定期間経過後に削除します。


4つ目も下寺尾地区に残ります↓

※OKN先生からの提供写真です。

内部は、1本の坑道の左右に
小さな部屋のような空間が
互い違いに設けられており
最深部付近に通風口と思われる
丸穴が天井に開けられていました。

内部の様子と教導先生です(笑)↓

※OKN先生からの提供写真です。

内部図です↓

ホームページへの掲載と同時に
 削除予定です。

坑道の総延長は約20メートルを
計測しています。

googleマップにトレースすると
こんな感じになります↓

※このトレースは内示用ですので
 一定期間経過後に削除します。


5つ目の陣地は行川地区です↓

※OKN先生からの提供写真です。

ここは、確証は全くありませんが
長年の「勘」から本部壕であると
勝手に推測しているところで、
坑道の規模も、小さいながらも
それなりにあります。

内部の様子です↓


※上記2枚ともOKN先生の写真です。

残念ながら、複数設けられている
入口の大半が土砂で埋没しており
足場は非常に悪かったですが、
(確か、slycrow先生がデジカメを
かばいながら派手にこけた場所です)
170.2メートルの坑道延長を
計測することが出来ましたっ!

陣地の内部図です↓

ホームページへの掲載と同時に
 削除予定です。

googleマップにトレースすると
こんな感じになります↓

※このトレースは内示用ですので
 一定期間経過後に削除します。


茅ヶ崎も藤沢同様に
小規模とはいえ、かなりの数の
洞窟陣地が点在していると思われ
ご紹介したのは一部に過ぎません。

当方に関係する皆様方と
連携しながら、今シーズンは
全容解明に近づきたいところです!


【収録遺構】
 陸軍第三一六師団
 抵抗拠点陣地(茅ヶ崎市)

   地下壕 5箇所

【探訪情報】
 2007.04.07  第1回探訪
 2007.09.17  第2回探訪

 歩数(指数) 未計測(100)


後ほど、ホームページ内でも
ご紹介させていただく予定です。


それでは、またお会いしましょうっ★



↑よろしければ、こちらの「応援」も
 よろしくお願いします★

皆様、いかがお過ごしでしょうか。


いや~、平日は「愚痴」しか
出てこないですね・・・
今日も「大喧嘩」ですわ(笑)

だって、やることやってねーんだもん。
やらなきゃいけないことを
「やっていない」くせに、
どうして、やっていない他人に対し
文句が言えるのかな~って思う。

自分に「甘く」、他人に「厳しい」輩が
私は大嫌いでしてね・・・
これが仕事であれば「なおさら」です。
手の内を明かさない奴になんか
こちらの手の内を明かしてたまるか(笑)

私を否定的に見る人を
当然、私が肯定するはずはなく、
言い換えれば「目には目を」タイプの
典型とも言えますかね。
(ある意味、バカなんで・・・)

信用してくれない人なんかを
信用するわけないじゃんね~!
世の中、そんな「甘く」ありません。

こういう「見る目」だけは
長けちまっているもんだから、
「会社」という「組織」には
いつになっても馴染まない。
だから、嫌なヤツからは「冷たい」と
いつも言われちゃうんだな・・・(笑)

こんな「性格」なもんですから、
「失敗」をしてしまったことも
数多くあるのです・・・(涙)

あっ、でも、自分で言うのも難ですが
何もなければ私は「優しい」ですよ(汗)

もちろん、相手が「直す」のであれば
私だって直しますよ! ナハハッ


さてさて、本日は真己軍團「軍報」の
第31弾といたしまして、
岡山県岡山市におかれていた
山砲兵第二連隊の遺構を
簡単にご紹介させてくださいませ↓




山砲兵第二連隊は、
第十七師団の新設によって
1908年(明治41)に、香川県の
善通寺から転営し、岡山市内に
新設された兵営に入りました。

大正時代に入ると満州に
派遣されますが、陸軍の平時編制が
改正されたことによって廃止となり
その後は大阪兵器本廠の岡山出張所の
北倉庫に兵営が使われました。

現在、兵営の跡地は岡山大学に
変遷しており、キャンパス内に
当時の遺構が残っています。



岡山大学にお邪魔しております↓


今回は、毎度のことながら
日頃からお世話になっている
盡忠報國先生ブログを参考に
めぐっていきますっ★


当時の建物の一部が
キャンパス内に残っています↓



敷地の南側に門柱が残ります↓



【収録遺構】
 陸軍第十七師団
 山砲兵第二連隊
 (大阪陸軍兵器本廠
  岡山出張所 北倉庫)

  建物 1棟
  門柱 1箇所

【探訪情報】
 2017.07.11  第1回探訪

 歩数(指数) 約500歩(100)


後ほど、我々のホームページでも
ご紹介させていただきますっ★


いつもながら、愚痴ばっかりの
ブログで申し訳ありません m(_ _)m


それでは、おやすみなさいZzz



↑よろしければ、こちらの「応援」も
 よろしくお願いします★

皆様、こんばんわ m(_ _)m


まーったく、平日の大半は
帰りがこんな感じでして、
自分の時間が持てなくて
嫌になっちまいますね(怒)

こうやって「雑」に人間を扱う
クソったれ企業は潰れちゃえっ!
こういった企業は、逆に税金を
たくさん取られてしかるべきです。

私も、自分のやりたいことで
「お金」を稼いでみたいものです。
実現出来ている方が羨ましいです。


さて・・・
本日は既出案件でゴメンナサイ。
今回は和泉軍團「軍報」の
第63弾といたしまして
千葉県四街道市におかれていた
野戦重砲兵第四連隊の遺構を
簡単にご紹介させてください↓




野戦重砲兵第四連隊は、
近衛師団に隷属する部隊として
広島県で編成され、それまで
四街道に駐屯していた
野砲兵第十八連隊が、
1922年(大正11)の軍縮で
廃止となったことを機に
四街道へ移り、野戦砲兵学校の
西側に隣接して兵営がおかれました。

のち、1939年(昭和14)に
ノモンハン事件の応援部隊として
満州に出征して牡丹江に駐留しますが
太平洋戦争に突入し、南方での
戦闘激化に伴って、ブーゲンビル島や
ガダルカナル島に派遣され、
連合軍と戦って多数の死傷者を出して
終戦となりました。

現在、兵営跡地は愛国学園や
千葉敬愛高校・住宅地などに
なっていますが、当時の遺構が
残っています。



まだ千葉周辺に、旧国鉄の113系が
走っていた頃にさかのぼります(笑)↓



四街道駅の北側に
軍用地境界標が残ります↓




愛国学園の正門には
当時の門柱が使われています↓



四街道公民館の門柱は、
将校集会所の門柱であると
いわれています↓



公民館の敷地内には、
太平洋戦争の末期に艦船や
航空機などに使用する燃料の代替に
使われた松根油(松ヤニ)の採取跡が
残っています↓



住宅地内にも裏門が残っています↓



【収録遺構】
 陸軍近衛師団
 野戦重砲兵第四連隊

  門柱 3箇所
  軍用地境界標 2本
  その他 1箇所

【探訪情報】
 2006.08.27  第1回探訪
 2007.05.21  第2回探訪
 2011.03.05  第3回探訪

 歩数(指数) 約15,000歩(999)


それでは、またお会いしましょうっ!



↑こちらの「応援」も、
 ひとつ、よろしくお願いします★

皆様、いかがお過ごしでしょうか。


昨日のブログで、東急田園都市線を
はしっている車両を取り上げたら
今日の朝から田園都市線が
不通になってしまった・・・

っていうか、朝から「大迷惑」でした。
田園都市線沿線に住む人間が
出社時間に出勤出来ず、
打ち合わせは中止になるわ、
余計な作業まで押し付けられ・・・

どうしてくれんだ、東急?
ここのところ、運転中止多すぎっ!
ほぼ「毎月」やってんじゃん。
時間をお金で買っている
人様からお金取ってるくせに、
その人様を不愉快にさせるなんて
こんなんじゃ商売する資格なし。

いたずらにコスト削減を追求し過ぎた
結果じゃないの?って言いたくもなる。

1回、関西の鉄道会社に行って
勉強して来いっ!


さて・・・
本日は美恵軍團「軍報」の
第62弾といたしまして、
愛知県春日井市に敷設された
陸軍小牧飛行場の軍用線を
簡単にご紹介させてください↓




小牧軍用線は小牧飛行場に展開した
陸軍部隊に対し、燃料や弾薬・
資材などを現在の名鉄小牧線経由で
搬入する目的で敷設され、
軍用線の完成時期は飛行場の開設と
同時期であるものと推測しています。

戦後も一時期は敷地を接収した
アメリカ軍や、航空自衛隊小牧基地で
燃料の輸送用に使われていたようですが
現在は完全に廃線となっており、
線路の跡が残っています。



かとう先生おピンちゃん先生と共に
春日井市にお邪魔しております↓



名鉄小牧線の線路から分岐して
約200メートルの区間で、軍用線の
名残を見ることが出来ます↓



分岐してしばらくの区間は
単線なのですが、並行する
木曽街道を跨いだあたりから
複線になっていたようです↓



複線のまま航空自衛隊小牧基地の
敷地内に入っていきます↓



【収録遺構】
 陸軍小牧飛行場
 小牧軍用線

  その他 1箇所

【探訪情報】
 2017.07.28  第1回探訪

 歩数(指数) 未計測(100)


後ほど、我々のホームページにも
掲載予定ですっ★


それでは、またお会いしましょうっ!



↑こちらの「応援」も、
 ひとつ、よろしくお願いします★

皆様、こんばんわ m(_ _)m


今日は「埼玉県民の日」です(笑)
埼玉県の学校や一部の企業は
「祝日」でお休みです。

どおりで、朝の電車で
いつも見かける学生たちが
いないと思った(笑)

ニュースを見て、今日が県民の日と
知ったのですが、これでも
私も「埼玉県民」です(笑)


さて、本日は「鉄道」ネタで
ブログを更新させていただきます。


今回は東急8500系でございます。



東急8500系電車(wikipediaを抜粋)↓

東急8500系電車は、1975年(昭和50)に
登場した東京急行電鉄の通勤形電車。

8000系電車を改良して田園都市線・
半蔵門線相互乗り入れ仕様車と
している。

広義の8000系電車に含まれ、
8000系電車とは走行機器の大部分が
共通である。

1975年(昭和50)から1991年(平成3)にかけ
400両が製造された。

1976年(昭和51)に通勤電車の中で
技術的に集大成された車両として、
東急としては初めて
鉄道友の会「ローレル賞」を受賞した。



こんな感じの車両です↓

wikipediaの写真です。


世田谷・川崎・横浜あたりに
お住いの方には「お馴染み」の
車両ですねっ!

地下区間を「オオオオー」って
音を出しながら走ってるやつです(笑)


現在の職場でも、田園都市線沿線に
在住している人が多いです。
桜新町・高津・鷺沼・たまプラーザ・
あざみ野・江田・南町田・中央林間など。
多分、フロアの4分の1くらいが
この線区を利用してると思う。

うちの会社、株式会社田園都市線に
名前変えちゃえば?(笑)


歓迎会などの飲み会で、
「どこに住んでるの?」っていう話は
普通に出ると思いますが、
神奈川県民には武蔵野線は
なじみがないのかえ?
たいがい「え?」って言われる。
確かに神奈川県は走らないか。


悪かったな、クソ田舎で(笑)


110キロで爆走する8500系急行↓

wikipediaの写真です。

初めて8500系に乗車したのは
まだクソガキの頃ですね。
この時は、まだ三越前までしか
半蔵門線が開通しておらず、
友達が半蔵門線の8000系を
写真に収めたいっていうので
「付き合い」で一緒に行った時です。

しかし、いくら待っても
8000系はやってこず、その代わりに
来るのがこの8500系ばかり。
しかも、私が東急で関心がある
形式は6000系とか7000系なので
当時の「次世代」をいく
「界磁チョッパ」の8500系なんか
全く興味がなかったです(笑)

興味はないし、いくら待っても
お目当ての車両が来ないので
友達の前で「大あくび」したのを
今でも覚えてます。

いわもっちゃん、あの時は
悪かったね(汗)


田園都市線内をはしる8500系↓

wikipediaの写真です。

この形式が「いいな~」って
感じたのは、やはり諸元表を
見てからですね。

私は京急1000を崇拝している
大バカ野郎なので、何事も
この形式と比較して性能の
良し悪しを判断してしまう
悪い癖がございまして(笑)

枚挙にいとまがなくなってしまうので
1つだけ挙げますが、例えば
編成出力とか・・・

半蔵門線に乗り入れる8500系は
10両編成ですが、このうち2両は
モーターを搭載しない「付随車」なので
8両が「電動車」ということになります。

1両にモーターは4個乗っており、
1つのモーター出力は130kwなので
130kw*4個/両*8両電動車/編成を
計算すると編成出力は4,160kwと
なります。

京急1000は全てが「電動車」ですので
最終増備車で考えると、
1つのモーター出力は90kwなので
90kw*4個/両*10両電動車/編成を
計算すると編成出力は3,600kwと
なるので、「単純」に考えると
10両編成のうち、付随車が2両も
組み込まれているのに、
全電動車の京急1000よりも
約1.2倍の馬力をもっていることになり、
歯車比は京急1000の5.5に対して
東急8500は5.31なので、数字上は
高速性能も後者が「有利」となります。

ここに惹かれました(笑)
(無視していいです)


8500系の電動台車です↓


うーん、東急の典型的な
ペデスタルタイプですな。。。
個人的には、あまり乗り心地は
いいとは思えなかったけど・・・


本日は大変な「脱線」と「的外れ」な
ブログ更新で申し訳ありません m(_ _)m
また、当方の体調不良で「軍報」の
掲載をお休みしてしまいゴメンナサイ。

明日から数日は、「軍報」の掲載を
再開させていただきますので
お時間がある時にでもご笑覧ください。


それでは、またお会いしましょうっ★



↑こちらの「応援」も、
 ひとつ、よろしくお願いします★

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