戦争遺跡のご紹介やホームページの制作状況などを綴っていきます♪

総軍BLOGへようこそっ!

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祐実総軍三等兵

Author:祐実総軍三等兵
全国に残る戦争遺跡を探訪し
記録することを趣味とする
祐実総軍三等兵ですっ★

稚拙な内容ではございますが
これまでに関係者の皆様方と
見てきた戦争遺跡を中心に、
ブログ・ホームページなどで
順次ご紹介をしていきます♪

よろしくお願いしますっ★

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皆様、いかがお過ごしでしょうか。


昨日はやさぐれてしまい、昼間から
お酒を飲んでいたのですが、
ちょっと飲み過ぎてしまって
ブログの更新を怠りました(汗)
申し訳ありません m(_ _)m


今日の朝、出勤したら
何やら職場がザワザワしているので
障害が発生したかと思ったのですが
通勤時間帯に大阪周辺で大きな地震が
発生したようですね・・・

大阪大好き人間としては、
このような惨事になってしまい
仕事に手が付かないほど
1日ソワソワしてたのですが、
あくまで私はよそ者ですので
とやかく言わないことにします。


早く、元通りになりますように・・・


さて・・・
本日は祐実軍團「軍報」の
第198弾といたしまして
埼玉県春日部市におかれていた
東京第一陸軍造兵廠江戸川工場と
精工舎南桜井工場の遺構群を
ご紹介させてくださいませ↓




江戸川工場は、東京の十条に
おかれていた東京第一陸軍造兵廠の
第三製造所の疎開を目的として
すでにおかれていた精工舎の
未使用の工場敷地を借用する形で
1945年(昭和20)に開設されました。

ここには、工作工場や機械工場・
組立工場などを中心とした建物群が
設置され、瞬発信管や時限信管などが
製造されましたが、わずか数ヶ月で
終戦となり閉鎖されました。

現在、跡地は商業施設や住宅地などに
変遷して面影がない状態ですが、
当時の遺構がわずかに残っています。



東武野田線の南桜井駅に
到着いたしました↓



まずは、敷地の外周部分を
歩いていくことにします↓



敷地の南西端に当時の門柱が
残っていました↓



引き続き、外周を歩いていきます↓



敷地の東端付近にも倉庫が
残っています↓



これも当時の石垣の一部であると
推測しています↓



外周を1周した後は、敷地の
中央付近を見ていきます↓



組立工場付近に建つ桜川小学校の
校庭内に古いコンクリート製の
構造物がありましたが、
これはいったい何でしょうかね・・・↓



この構造物の詳細をご存じの方が
いらっしゃいましたら、是非とも
ご教示いただきたいですっ!


googleのストリートビューでは
怪しい建物が写っていたのですが・・・↓



残念ながら、取り壊されてました・・・↓



このほか、航空写真では
工作工場と考えられる建物が
残っているように見えたのですが、
残念ながら確認することが
出来ませんでした(涙)


もしかしたら、近々開業予定の
商業施設の立体駐車場から
見えるようになるかもしれませんが
どうでしょうかね・・・


当時の建物配置図と現存遺構を
トレースするとこうなります↓



【収録遺構】
 東京第一陸軍造兵廠
 第三製造所
 江戸川工場
 (精工舎 南桜井工場)

   門柱 1箇所
   建物 1棟
   その他 1箇所

【探訪情報】
 2018.06.09  第1回探訪

 歩数(指数) 約16,000歩(100)


後ほど、我々のホームページでも
ご紹介させていただきますっ★


それでは、またお会いいたしましょうっ!



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皆様、いかがお過ごしでしょうか。


やっと、木曜日ですね・・・
仕事に対するストレスが
溜まってしまい、そろそろ
精神が病みそうです(涙)


オフシーズンとはいえ、近場で
探訪したいところもたくさんあるので
会社に拘束されている場合じゃ
ありませんねっ!


さて、本日は祐実軍團「軍報」の
第197弾といたしまして
東京都荒川区におかれていた
千住製絨所の遺構を簡単に
ご紹介させてくださいませ↓




千住製絨所は、殖産興業の一貫として
毛織物の生産を行うことを目的として
1879年(明治12)に開設されました。

1888年(明治21)には、陸軍省の
所轄下となり、軍服などに使用する
布地類や毛糸などを生産し、
終戦まで機能が存続しました。

戦後、施設は民間企業に
払い下げられ、暫くは引き続き
毛織物の生産を行いましたが、
現在は閉業しており、敷地は
都立荒川工業高校や
荒川総合スポーツセンター・
商業施設などとなり、当時の
建物などは消失していますが、
レンガ製の境界塀を中心とする
遺構が保存されています。



常磐線・日比谷線の南千住駅の
北西に位置するライフ南千住店に
塀と石造りの遺構が保存されています↓



案内板も設けられています↓



塀の裏側です↓



細い路地を少し進むとレンガ製の
塀がさらに1区画残っています↓



【収録遺構】
 千住製絨所
 (陸軍千住製絨所)

  その他 3箇所

【探訪情報】
 2013.07.15  第1回探訪

 歩数(指数) 約1,300歩(100)


それでは、またお会いいたしましょう★



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皆様、いかがお過ごしでしょうか。


今週に入り、仕事が忙しくなり
色々と不運が続いております・・・

当方は基本的に残業しないので
残業しないと終わらない作業も
定時内に終わらせようとします。

残業しない=仕事してないといった
ふざけたことを言われようもんなら
「やってやんねーよ?」となるので
私は面倒くさい人間なんです(笑)

定時内で終わる作業量を取り組む。
これが求められる「働き方改革」です。
残業ありきの話を出す改革など
まったく聞く耳をもちません(笑)


さてさて・・・
本日は祐実軍團「軍報」の
第196弾といたしまして
神奈川県鎌倉市に設置された
海軍東京湾要塞地帯標を
ご紹介させてくださいませ↓




東京湾要塞は、日本の本土におかれた
12箇所の永久要塞のうちの 1つです。

1895年(明治28)の要塞司令部条例により
永久的な防御工事を施している場所は
「要塞」とされ、海軍の場合は
軍港が「要塞地帯」とされました。

また、これに伴う法律も公布されており
軍事機密の保持のため、要塞地帯に
指定された区域内での測量や撮影・
スケッチ・土木工事などは、
要塞司令部の許可がないと
出来ませんでした。

これらの防御営造物より
250間(約455メートル)以内を特に
「要塞地帯第一区」として一般人の
立入りが禁止され、衛兵が
守備していました。

さらに、その距離に応じ「第二区」・
「第三区(区域)」が設定され、
これらを明確にするため
その境界部に要塞地帯標が
設置されました。

要塞地帯を定義する法律は
数度にわたって改正されましたが、
最終的に防御営造物から
1,000メートル以内を第一区・
5,000メートル以内を第二区・
15,000メートル以内を第三区(区域)と
当初よりも大幅に拡大されました。

鎌倉市については、
要塞地帯第一区と第二区に
定められた箇所があり、
その境界に設置された要塞地帯標が
現在も残っています。



北鎌倉駅付近にお邪魔しております↓



駅前に要塞第二区の地帯標が
残っています↓



標柱は花崗岩製で、
下部が埋まっていますが
正面に「東京湾要塞第二区地帯標」、
側面に「昭和十六年七月三十日」と
「第四五号」、背面に「海軍省」と
記載されていました↓



横須賀線に乗って鎌倉駅に
移動していきます↓



鎌倉駅から1キロほど南下した
材木座海岸付近にも
要塞地帯標が残ります↓



こちらは「東京湾要塞第一」の
文字が入っており、側面には
「昭和十六年」と「第二号」・
背面には「海軍省」とそれぞれ
読み取ることが出来ました↓



【収録遺構】
 海軍東京湾要塞地帯(鎌倉市)

  軍用地境界標 2本

【探訪情報】
 2005.07.30  第1回探訪
 2006.09.10  第2回探訪
 2006.12.17  第3回探訪

 歩数(指数) 未計測(124)


明日はブログの更新を
お休みさせていただきます m(_ _)m


それでは、またお会いいたしましょう★



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皆様、いかがお過ごしでしょうか。


月曜日は、仕事休みを除くと
ホント、いいことが全くありませんね。

自分も職場の連中も「クズ」過ぎて
鬱になりそうですわ。


今日は嫌な思いをしながら
めずらしく残業しちゃったので
いつもより遅い時間からの
ブログ更新でございます・・・


今回は祐実軍團「軍報」の
第195弾といたしまして
埼玉県所沢市におかれていた
所沢憲兵分遺所の遺構を
簡単にご紹介させてくださいませ↓




所沢分遺所は、気球を使って
戦況の偵察を行う軍用気球の
飛行場が所沢におかれたことにより
1911年(明治44)に設置された
憲兵の官舎です。

憲兵とは軍事警察のことで、
陸軍大臣の隷下におかれ、
軍の内部情報や情勢などが
外部に漏洩しないように
取り締まる役割を持ち、
著作物の検閲をはじめ、
国民の言動や思想などにも
目を光らせていたため、
周辺からは恐れられていた
存在でした。

現在、分遣所の跡地は
住宅地となっていますが、
所沢市消防第二分団付近に
当時の遺構が残存し
見学することが可能です。



西新井町の一角に
軍用地境界標が残ります↓



門柱と思われます↓



軍用地境界塀と思われる
塀も一部残っています↓



周辺も歩いてみましたが、
残念ながら見つけることが
出来ませんでした・・・(涙)


 【収録遺構】
  陸軍東京憲兵隊
  赤坂憲兵分隊
  所沢分遺所

   門柱 1箇所
   軍用地境界塀 1区画
   軍用地境界標 1本

 【探訪情報】
  2007.09.22  第1回探訪
  2012.09.15  第2回探訪

  歩数(指数) 約3,000歩(100)


それでは、またお会いいたしましょう★



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皆様、いかがお過ごしでしょうか。


明日から平日ですか・・・

再び、つまらないことに時間を
費やさないといけないわけですね・・・


さて・・・
日曜日「恒例」のサザエさん病が
重症化しないうちに、ブログの
更新をさせていただきます。


今回は祐実軍團「軍報」の
第194弾といたしまして
東京都北区におかれていた
東京陸軍兵器支廠の遺構を
ご紹介させてください↓




東京陸軍兵器支廠は、
東京の兵器本廠に隷属し、
第一師団に関係する兵器弾薬・
材料の購買や、これらの貯蔵・
修理を行う機関として1906年(明治39)に
西が丘地区におかれました。

その後、陸軍兵器廠条例の改正に伴い
兵器の補給業務を統一させる目的で
隷属先の名称が変わったりしましたが
最終的に1940年 (昭和15) の改正以降、
陸軍兵器行政本部に隷属する
「東京陸軍兵器補給廠」に改称されて、
兵器の材料や燃料などの保管と
補給を行いました。

跡地は、西が丘サッカー場や
マンションなどが建てられており、
当時の面影がありませんが
わずかに痕跡が残ります。



いっちゃん先生と西が丘に
お邪魔しております↓



姥ヶ橋交差点付近に位置する
小さな児童公園は、当時の建物や
軍用地境界塀に使われていた煉瓦を
活用しているといわれています↓



敷地の南限にあたる場所に
軍用地境界標と思われる
標柱がありましたが、残念ながら
文字の記載面が民家の塀に
埋まっており、詳細は不明です↓



この北側はマンションが
たくさん建てられていますが・・・↓



かつては、このような軍用地境界塀が
残っていました↓



一部はモルタルが剥がれ落ちて
煉瓦が露出している部分も
ありました↓



当時は約150メートルほど
残っていたのですが、残念ながら
現在は完全に消滅しています↓



この界隈を昔から知っている方の
お話しでは、門柱や建物なども
残っていたそうですが、行動が遅く
記録が叶いませんでした・・・


 【収録遺構】
  東京陸軍兵器支廠
  (東京陸軍兵器補給廠)

   軍用地境界標 1本
   その他 1箇所
   軍用地境界塀 1区画(消失)

 【探訪情報】
  2007.04.01  第1回探訪
  2007.05.13  第2回探訪
  2011.01.01  第3回探訪

  歩数(指数) 未計測(114)


それでは、またお会いいたしましょう★



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