戦争遺跡のご紹介やホームページの制作状況などを綴っていきます♪

総軍BLOGへようこそっ!

♦ プロフィール

祐実総軍三等兵

Author:祐実総軍三等兵
全国に残る戦争遺跡を探訪して
記録することを生き甲斐とする
祐実総軍三等兵でございます★
稚拙な内容ではございますが、
これまで調べてきた戦争遺跡を
ブログ・ホームページで紹介を
させていただいておりますっ♪

よろしくお願いしますm(__)m

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皆様、いかがお過ごしでしょうか。


三等兵は、悪天候を利用して
我々のホームページの更新作業に
邁進しているところですが、
せっかく記録したのに、以前に
ハード系がおじゃんになったことで
写真が消失してしまったり、
イベント等を不参加としたことで
記録することが叶わなかった・・・などで
掲載出来ない案件が多々ありまして
若干へこんでおります・・・(涙)


私に関わる全ての関係者様に
今後、色々と写真の提供を
お願いすることになりますが、
変な野心は持ち合わせてませんので
是非ともご協力くださいませ m(_ _)m

おそらく、口頭やメール・
ブログへの書き込みなどで、
関東地方については
 slycrow先生いっちゃん先生OKN先生
 kan先生yakumo先生と、
 隊長先生maya先生を筆頭とする
 房総半島戦跡考古調査会の先生方へ、
東海地方については
 空母先生かとう先生
 tonotama先生slycrow先生へ、
西日本地方については
 盡忠報國先生kan先生
そのうちお願いにあがるかと思います。
また、今後の探訪についても
記事を参考にさせていただきたいと
考えているところです。

もっとも、名前を挙げさせてもらった
関係者様に頼まれてホームページの
制作を始めたわけではないのですが、
制作サイドとしての私の本音は
やはり「我々」のページですので
本質を汲み取っていただきまして
引き続き、お力をお貸しくださいませ。
ひとつよろしくお願い申し上げます m(_ _)m

もう少し、ホムペ上に「提携感」が
前面に出せるといいのですが・・・
落ち着いたら考えますね★


さて、嘆きが長くなってしまいましたが
本日は祐実軍團「軍報」の
第120弾といたしまして、
神奈川県横須賀市におかれていた
久里浜倉庫の遺構群を
抜粋でご紹介させてください↓




久里浜倉庫は横須賀海軍軍需部の
倉庫の1つで、兵器や衣料品などの
保管を目的として、現在の神明町一帯に
設置されていました。

ここには、衣料・需品・機雷・電池・
通信系の器材類を保管するための
倉庫がおかれ、現在のJR横須賀線の
久里浜駅から各倉庫を経由して
久里浜港へいたる軍用線も敷設されて
軍需品の搬入・搬出が出来るように
なっていました。

終戦後、施設はアメリカ軍が接収し
倉庫として活用しましたが、
返還されて大半を解体し、現在は工場や
学校・住宅などが建てられている状況で
敷地外周におかれた軍用地境界標を
中心とした遺構が残っています。



一部、冒頭で名前を挙げさせてもらった
重鎮の皆様方と一緒にスタートします↓



衣糧倉庫が1つ残ります↓



くりはま花の国の周辺には
地下壕が4箇所確認出来ており
このうちの1つはエアライフル射撃場
活用されています↓




2つ目の地下壕は、残念ながら
全ての入口が塞がれており
内部の状態は判りません・・・↓



以降の地下壕は場所を伏せますが
内部を見ることが出来る箇所も
あります・・・


3つ目の地下壕です↓


内部は小規模ですが、流し台や
水槽などが残っていました。

地下壕の内部図です↓

※2週間後を目途に削除します。


4つ目の地下壕です↓


こちらは崩落が著しいですが
当時が判るものが残っていました。
なお、坑道延長は173メートルを
測っております。

地下壕の内部図です↓

※2週間後を目途に削除します。


今度は、敷地の外周部分を
北側から見ていくことにします↓



境界柵の一部が残っています↓



くりはま花の国の外周に沿って
ものすごい本数の軍用地境界標が
残っています(抜粋)↓




この区域で60本の記録が
叶いました(笑)


続いて、くりはま花の国の
冒険ランドから再開します↓



軍用地境界標が残ります(抜粋)↓




この区域では22本の記録が
叶いました~(笑)


ひつじさんをしばし眺めて
さらに東の尾根を抜けていきます↓



まだまだ、軍用地境界標が
残っておりますっ(抜粋)↓





この区域では35本の記録が
叶いました~(笑)


これだけやれば、お日さまだって
傾いちゃいますよね・・・(汗)↓



【収録遺構】
 横須賀海軍軍需部
 久里浜倉庫

  建物 1棟
  地下壕 4区画
  軍用地境界標 117本
  その他 1箇所

【探訪情報】
 2006.07.25   第1回探訪
 2006.08.13   第2回探訪
 2007.12.29   第3回探訪
 2014.04.27   第4回探訪
 2014.11.02   第5回探訪
 2016.03.12   第6回探訪

 歩数(指数) 50,000歩以上(999)


後ほど、ホームページ内でも
ご紹介させていただきますっ★


それでは、また明日っ!



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皆様、いかがお過ごしでしょうか。

いや~、8月に入って東京近辺は
雨が降らなかった日がないようです。
今週は、せっかく近場の探訪予定を
組んでいたのに、延期・延期ですわ・・・
やりたいことのために「休車」としたのに
連日のクソ天気に阻まれているんじゃ
もはやお話しにならんですわ、まったくっ!


さて・・・
いつもの三等兵節が炸裂したところで
本日は祐実軍團「軍報」の第119弾として
神奈川県横須賀市におかれていた
浦賀憲兵分遣隊の遺構を
簡単にご紹介させていただきます↓




浦賀分遣隊は、重砲兵学校の
前身であった要塞砲兵幹部練習所が
浦賀におかれたことで1893年(明治26)に
設置されたようです。

のち、1896年(明治29)に
要塞砲兵幹部練習所が
要塞砲兵射撃学校に改称して
馬堀に新設された校舎へ
移転したことで浦賀分遣隊は
廃止されたようです。

現在、跡地は横須賀浦賀郵便局と
なっており、当時の面影がありませんが
1990年(平成 2)に行われた検地の際に
発掘された軍用地境界標が
浦賀コミュニティセンターの分館に
移設され館内に保存されています。



いわゆる「戦争遺跡」を本格的に
探訪を始めた時期から一緒に
まわってきた古参の1人である
いっちゃん先生浦賀駅から
探訪スタートです↓



浦賀コミュニティセンター分館
軍用地境界標が保存されています↓



保存までの経緯が記されています↓



この南側に当時のものと思われる
煉瓦製の構造物が残っていましたが
現在は取り壊されています・・・↓



【収録遺構】
 陸軍横浜憲兵隊
 横須賀憲兵分隊
 浦賀憲兵分遣隊

  軍用地境界標 1本
  その他 1箇所(消失)

【探訪情報】
 2005.07.03   第1回探訪

 歩数(指数) 未計測(100)


後ほど、ホームページ内でも
ご紹介させていただきますっ★




※関係者の皆様へっ!

 まったくもって情けない話なのですが
 下記の写真を「どこ」で撮影したのかが
 わからなくなってしまいました。

 現在、判っている情報としては
 浦賀駅から千代ケ崎砲塔砲台へ
 向かう途中の「どこか」です・・・

 これです↓
 

 ズームアップすると、何か古そうな
 門柱が1対ありますよね・・・↓
 

 この門柱が何かを確認したいのですが
 場所が判らないもので・・・(汗)

 お判りになる方がおられましたら
 コメント・メール・電話、何でもいいです!
 是非ともご教示いただきたいです。
 よろしくお願いいたします m(_ _)m
 




それでは、また明日っ!



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皆様、いかがお過ごしでしょうか。
日々のご精勤・ご講義、
誠にお疲れ様でございます。


昨日、NHKで広島県呉市の
自衛隊敷地内に残る地下壕が
取り上げられていましたねっ!
7月29日(土)に一般公開されるとか。


ううぅ、行きたい・・・
行きたいけど、軍事予算が
捻出出来ない・・・(涙)


ちなみに・・・
三等兵の直近探訪予定ですが、
こんな感じになっております↓

 7月25日(火) 横須賀
 7月27日(木) 浜松
 7月28日(金) 名古屋・春日井・小牧
 8月7日(月) 豊川
 8月8日(火) 岐阜
 8月9日(水) 鬼怒川(旅行です)

このほか、8月最初の週に
潮来・銚子か南房総・館山を
まわろうかと思っております。
また、8月後半に沼津も行こうと
思っているところですが、
はたしてどこまでやれるか・・・


さてさて、本日は祐実軍團「軍報」の
第118弾といたしまして、
東京都世田谷区におかれていた
駒沢演習場の遺構を
簡単にご紹介させてくださいませ↓




駒沢演習場は、池尻・下馬地区に
転営してきた第一師団隷属部隊の
兵科演習場として1897年(明治30)に
設置され、場内に砲撃演習に使った
長大な塹壕などが構築されていました。

60,000坪にも及んだ広大な演習場跡地は
区立小・中学校や世田谷公園・防衛省の
関連施設に変遷していますが、
演習場の北にあたる、池尻2丁目に
遺構が少し残っています。



今回はいっちゃん先生と一緒に
池尻大橋にお邪魔しています↓



少し歩くと、当時の排水路が
暗渠になって現存しています↓



排水路の内部です↓



軍用地境界標も残っています↓



これもそうでしょうね↓



【収録遺構】
 陸軍第一師団
 駒沢演習場

  軍用地境界標 2本
  その他 1箇所

【探訪情報】
 2005.07.24   第1回探訪
 2007.03.18   第2回探訪
 2007.03.24   第3回探訪

 歩数(指数) 約2,000歩(94)


話が変わってしまいますが、
よこすか海軍カレーの元祖である
魚藍亭のよこすか海軍カレー館
建物の老朽化のために
8月いっぱいで閉店するようです・・・
7月25日に横須賀へ行く予定なので
是非とも行きたいと思います。

横須賀は、三等兵がこのジャンルで
ここまで来れた、いわば想い入れのある
「聖地」でもあるので、この地が
衰退することがないように
地域に貢献させていただきたいです。
何とか1自治体の中で、所謂「戦跡」の
残存遺構数というところで横須賀市は
「日本一」であることを証明したいですね。
探訪した結果、横須賀市がそうではないかも
しれませんが、三等兵は信じてます(笑)
我々のホームページでは、
まだ3分の1ちょっとしか掲載出来てませんが
頑張って更新していきますよっ★


それでは、またお会いいたしましょうっ!



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 (のちほど、お返しポチも
 させていただきますね~)

皆様、三連休をいかがお過ごしでしょうか。
蒸し暑さを除けば、快適な行楽日和と
なりそうですが・・・


三等兵は廃車後休車の状態ですので
日頃からお仕事に邁進されている
皆様方のバカンスの邪魔にならないように
連休期間を過ごしたいと思います(笑)


さてさて、本日は祐実軍團「軍報」の
第117弾といたしまして
神奈川県横須賀市におかれていた
東京石川島造船所浦賀分工場の
遺構を簡単にご紹介させてくださいませ↓




東京石川島造船所は、日本で最初となる
民営の洋式造船所として産業近代化に
大きく貢献した前身の石川島造船所からの
組織変更により1893年(明治26)に
創設されました。

創設から5年後にあたる1898年(明治31)には
当時の取締役であった渋沢栄一氏の
提案により、大型船の建造修理を目的として
浦賀に分工場が新設されますが、
1897年(明治30)に同じ地区で創業した
浦賀船渠との間で、艦船建造・修理の
受注合戦が繰り広げられたことで経営が傾き
最終的に浦賀船渠が浦賀分工場を買収し
1902年(明治35)に川間分工場が
開設されました。

その後、しばらくは経営不振が続きましたが
第一次世界大戦での船舶特需で
経営を立て直し、駆逐艦の建造を
業務の中心としました。

太平洋戦争の末期には、本土への空襲が
本格化したことで被害を防止するために
周辺の山にも地下工場が
掘削されています。

終戦後も浦賀船渠は民間船の建造を
中心として存続していましたが
川間分工場は1984年(昭和59)に閉鎖され
現在はシティマリーナとなりドライドックや
地下工場などがわずかに残存し、
一部は現在も見学が可能です。



いにしえの重鎮方と一緒に
浦賀駅に到着です↓


ここから浦賀船渠の浦賀工場を
横目に見ながら目指していきます。


シティマリーナ内にドライドックが
良好な状態で残っています↓




案内板も立てられています↓



燈明崎付近へゾロゾロと
移動していきます↓



地下工場が残っています↓



残念ながら、足場は非常に悪く
現在は内部見学が非常に難しいです。


一部の坑道は、このように
崩落していたり・・・↓



埋め戻されているため危険です↓



このように、匍匐状態でしか
進めない坑道もあります・・・↓



この地下工場のユニークなところは
横鎮の抵抗拠点陣地に繋がっており
生産と防衛が一体化しています↓




銃眼から狙撃準備をしている
重鎮メンバー(ものすごく偉い方々です)↓



探訪記念写真です(笑)↓



地下工場の内部図です↓

 ※2017.8.16 内部図を削除しました。



【収録遺構】
 東京石川島造船所
 浦賀分工場
 (浦賀船渠
  川間分工場)

  建物基礎 1箇所
  地下壕 1区画
  その他 1箇所


【探訪情報】
 2006.09.23   第1回探訪
 2014.05.05   第2回探訪

 歩数(指数) 約2,000歩(100)


後ほどホームページ内でも
ご紹介させていただきますっ★


明日は「ホームページ関係」で
ブログの更新をさせていただきます。


それでは、またお会いいたしましょうっ!



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皆様、日曜日をいかがお過ごしでしょうか。


三等兵は、総軍大元帥閣下と共に
明日から福山・岡山へ行ってまいります。
新幹線の切符も無事に購入出来ました。
宿もOK。下準備もOK。
あとは3日間の天候ですな。。。
全日、雨っぽいです(涙)
日頃の行いが「素晴らしい」としか
言いようがございませんなっ!


さてさて、本日は祐実軍團「軍報」の
第116弾といたしまして
神奈川県三浦市におかれていた
三崎砲台の遺構をご紹介します↓




三崎砲台は東京湾要塞の 1つで
三浦半島の南方海面の防備を
主目的として1921年(大正10)に
竣工しました。

ここには、30センチ長榴弾砲が
4門据えつけられ、砲の射程は
約15キロありましたが1938年(昭和13)に
トーチカ攻撃用として全ての砲が撤去され、
満州に移されたことで1943年(昭和18)に
除籍され廃止となりました。

現在、跡地は丘陵を利用した
畑地になっており、往時の全容は
判然としませんが、観測所の遺構や
門柱などがわずかに残っています。



いにしえのメンバーである
いっちゃん先生・OKN先生・
教導先生・土龍先生と、
ヘーホー言っているだけの三等兵で
三浦市にお邪魔しております↓



門柱が残っています↓



少し進んでいくと、草木に埋もれた
右翼観測所が残っています↓



その下に計算室と思われる
地下施設が残っています↓



少し離れた岩堂山にも
遠隔観測所が残っているため
一同進んでいきます↓



関連する遺構が残っています↓



岩堂山遠隔観測所の
地下施設が見えてきました↓



観測所です↓



計算室です↓



付属の地下施設です↓



上部に砲台長の立台が
残っています↓



これも当時のものと思われます↓



ここからの眺めも
なかなかのものですっ↓



ここから北西側に進んだ
海岸付近にも防御営造物境界標が
いくつか残っていました↓






【収録遺構】
 陸軍東京湾要塞
 三崎砲台

  門柱 1箇所
  観測所 2箇所
  地下施設 4箇所
  軍用地境界標 4本
  その他 2箇所


【探訪情報】
 2016.09.23   第1回探訪
 2014.07.06   第2回探訪
 2015.02.21   第3回探訪
 2016.02.06   第4回探訪

 歩数(指数) 約3,000歩(406)


後ほどホームページ内でも
ご紹介させていただきますっ★


冒頭でもふれさせていただきましたが
明日から遠征のため、当面の間は
雑記形式でのブログ更新と
させてくださいませ m(_ _)m


それでは、またお会いいたしましょうっ!



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