戦争遺跡のご紹介やホームページの制作状況などを綴っていきます♪

総軍BLOGへようこそっ!

♦ プロフィール

祐実総軍三等兵

Author:祐実総軍三等兵
全国に残る戦争遺跡を探訪して
記録することを生き甲斐とする
祐実総軍三等兵でございます★
稚拙な内容ではございますが、
これまで調べてきた戦争遺跡を
ブログ・ホームページで紹介を
させていただいておりますっ♪

よろしくお願いしますm(__)m

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皆様、いかがお過ごしでしょうか。


ついに・・・私のところにも
こんなん来ました(笑)↓


今まで、幸いなことに
こういったクソったれな通知や
警告などは来なかったので
ちょっと「油断」してました(笑)

通知を見て、「こりゃ、大変」と
我々が慌てて電話をかけてくると
送信するバカは思うのでしょうね。
笑っちゃうよね~っ★

私は感情に任せて何かを
色々としでかすタイプですが、
皆様はいちいち反応しないで
鼻糞でも飛ばしてやりましょうね~

電話番号は、他にもあるはずですが
少なくとも下記の電話番号は
ダメなやつですからね~↓
 〇一一五五八〇二〇八
 (市外局番から北海道だろ?)

この電話番号にかけちゃうと
我々が負ける可能性があるので
鼻糞を飛ばしてやるくらいに
留めておきましょうねっ!


さてさて、本日は祐実軍團「軍報」の
第130弾といたしまして
神奈川県横須賀市におかれていた
米が浜砲台の遺構群を
簡単にご紹介させてくださいませ↓




米が浜砲台は東京湾要塞の 1つで
1890年(明治24) 年10月に竣工し、
28センチ榴弾砲を 6門と
24センチカノン砲が2門
据え付けられました。
また、平時は要塞砲兵第一連隊が
使用する演習砲台にも
なっていたようです。

その後、1904年(明治37)の
日露戦争で、旅順要塞攻略戦での
砲不足を補填するため、
ここに据え付けていた榴弾砲を
全て取り外して現地に送られました。

大正時代に入り廃止となりましたが、
その後の関東大震災で、
深田と田戸におかれていた
演習砲台が破損したことにより、
これの代替として1927年(昭和2)に
28センチ榴弾砲を4門据え付け
演習砲台として改築し、
終戦まで機能しました。

現在、砲台の跡地は中央公園として
整備されていますが、わずかに
演習砲台の遺構が残るほか
敷地の外周付近にも
防御営造物境界標が残存し
簡単に見学することが出来ます。



今回はいっちゃん先生OKN先生
筆頭に重鎮メンバーの皆様方と
探訪した時の写真を掲載します↓



中央公園内に砲座が残ります↓



砲座の脇には砲側弾薬庫が
2つ残っていますが、入口は
いずれも塞がれています↓



中央公園の南西付近に
防御営造物境界標が
8本残っています↓







文化会館側から中央公園に
続く道路脇の駐車場付近にも
防御営造物境界標(現在は消失)が
1本残っていたのですが、
写真を消失してしまいました・・・(涙)


これは境界柵の支柱群であると
思われます↓



横須賀共済病院の裏手にも
防御営造物境界標が
残っています↓


正面部分は「陸軍所轄地」と
軍用地境界標と同じ文言が
刻まれていますが、背面部分に
「防三六」と通し番号が入っており
防御営造物に対して設置された
境界標であると判ります。


市立田戸小学校の前をはしる
道路沿いにも・・・↓



防御営造物境界標が
残っています↓



【収録遺構】
 陸軍東京湾要塞
 米が浜砲台

   砲座 1箇所
   地下施設 2箇所
   軍用地境界標 10本
   その他 1箇所

【探訪情報】
 2005.05.15  第1回探訪
 2007.03.11  第2回探訪
 2007.12.29  第3回探訪
 2014.07.06  第4回探訪
 2017.08.29  第5回探訪

歩数(指数) 未計測(480)


後ほど、ホームページ内でも
ご紹介させていただく予定です。


明日は、いっちゃん先生達と
軽く地下壕に潜る予定ですので
雑記形式でブログの更新を
させていただきます m(_ _)m


それでは、またお会いしましょうっ★



↑もしよろしければ
 ポチっとやってくださいませ★

皆様、こんばんわ m(_ _)m

久しぶりに今日は晴れましたっ★
せっかく、気温が平年並みに
戻りそうだったのに、明日から雨で
再び冬の陽気なんだとか・・・
まいっちゃいますね(怒)


さてさて、本日は祐実軍團の
「軍報」の129弾としまして
埼玉県深谷市におかれていた
日本煉瓦製造上敷免工場の
専用線の遺構をご紹介します↓




深谷専用線は、深谷におかれた
日本煉瓦上敷免工場で
生産された煉瓦を輸送する目的で
それまで使われていた利根川の
舟運に代わる手段として、
1895年(明治28)に敷設されました。

専用線の総延長は約 4キロあり、
JR高崎線の深谷駅で分岐して
北上し、上敷免工場の構内に
引き込まれていました。

太平洋戦争に突入すると、
東京第二陸軍造兵廠板橋製造所の
疎開先となった深谷製造所の
明戸工場での軍用線としても
使われたようです。

現在、専用線は廃止されて
遊歩道となっており、当時の遺構が
いくつか残っています。



日本煉瓦製造上敷免工場
見学した後は、おピンちゃん先生
専用線の遺構を見ながら
深谷駅まで歩いていきます↓



当時の橋梁に到着です↓



この橋梁から少し進むと
もう1つ橋梁が残っており、
備前渠鉄橋というそうです↓



案内板が立てられていました↓



専用線跡は「あかね通り」という
名称で遊歩道として整備され
桜や菜の花がきれいに咲きます↓




当時の思われるレンガ遺構が
畑の中に残っていました↓



公園の中にも橋梁が
保存されています↓



こちらは福川鉄橋と
いうそうですよ↓



深谷駅に向かって専用線跡を
どんどん歩いていきます↓



JR高崎線との合流地点付近に
当時の橋梁跡である橋脚が
残っていますが橋梁部分は
戦後のものです↓



約4キロの道のりを歩くと、
そろそろ深谷駅に到着です↓



【収録遺構】
 日本煉瓦製造
 深谷専用線
 (東京第二陸軍造兵廠
  深谷製造所
  深谷専用線)

   橋梁 4箇所
   その他 1箇所

【探訪情報】
 2015.06.13  第1回探訪
 2016.04.09  第2回探訪

歩数(指数) 未計測(100)


それでは、また明日っ!



↑もしよろしければ
 ポチっとやってください~★

皆様、いかがお過ごしでしょうか。


ここのところ、「出庫」をすると
職場の「名言」に振り回され
早くもガタが出てきてます(笑)

ダメになる周期が早すぎっ!
何といっても「大好き」な仕事で
ございますからねっ!


さてさて、本日も「既出」ですが
祐実軍團「軍報」の第128弾として
東京都目黒区におかれていた
輜重兵第一大隊の遺構を
1つだけご紹介させてください↓




輜重兵第一大隊は、第一師団に
隷属する部隊で、当初は新宿区の
信濃町におかれていました。

ところが、兵員数の増加に伴って
敷地が手狭になり、市区改正条例の
発効もあって、1892年(明治25)に
当時は「駒場野」と呼ばれた
この地区へ兵営を移転させました。

輜重兵は、各師団に隷属する
支援部隊の 1つで、前線へ弾薬や
糧秣類などを運搬して補給する
「縁の下の力持ち」といった
役割を持っていました。

現在、跡地には都営住宅や
駒場高校・区立第一中学校などが
建てられており、面影がほとんど
ありませんが、氷川神社裏手に
軍用地境界標が1つだけ
残っています。



今回はいっちゃん先生
マンツーで探訪します↓



氷川神社に到着です↓



境内の裏手に軍用地境界標が
1つ残っています↓



【収録遺構】
 陸軍第一師団
 輜重兵第一大隊

   軍用地境界標 1本

【探訪情報】
 2007.03.18  第1回探訪
 2007.03.24  第2回探訪
 2007.05.13  第3回探訪

歩数(指数) 未計測(150)


明日は、ホームページに未掲載の
案件について「軍報」形式での
掲載を予定しております m(_ _)m

ここのところ「怠けて」しまい
申し訳ないです・・・

お時間がよろしい時にでも
またお越しくださいませ m(_ _)m


それでは、また明日っ!



↑もしよろしければ
 ポチっとやってください~★

皆様、いかがお過ごしでしょうか。

いや~、おピンちゃん先生
久々にお店で深酒してしまい
ベロンベロンで帰りました(笑)

ここのところ、色々と
つまらん日々を送っていたので・・・


さてさて、今回は時間を巻き戻した
起算更新で「軍報」を掲載します。
本日は神奈川県横須賀市に
おかれていた深田演習砲台の
遺構をご紹介させてくださいませ↓




深田演習砲台は、市内に展開した
要塞砲兵第一連隊が使用する
演習用の砲台として明治期に
設置されました。

資料に乏しく、経緯をきちんと
調べられていませんが、
ここには28センチ榴弾砲が
据え付けられ、大正に入り
関東大震災が発生すると、
甚大な被害を受けたため、
近接していた米が浜砲台を改修し
演習砲台に転用したため、
廃止されたようです。

現在、跡地の大半が住宅地に
変遷しているため、面影が
ありませんが、当時のものと
考えられる遺構が残ります。



今回はkan先生と一緒に
県立大学駅(探訪当時は安浦)から
スタートしていきます↓



田戸台を経由して住宅地を
北上していくと門柱が
1対だけ残っています↓



住宅地の庭先に、測遠器台と
考えられる観測所の遺構が
残っていました↓



軍用地境界標も残っています↓



これは関係ないと思われますが
個人的に気になるヤツです↓



いっちゃん先生OKN先生には
過去にぼやいた記憶がありますが
ここに来る前に経由した
田戸台の地方裁判所の前に
防御営造物境界標が残っており
これは何の施設のものなのか
気になって仕方ないです。
おかげで、夜も眠れなくて(笑)


ちなみに、これです↓



しっかりとした根拠はないですが
地名などから、書籍等で
ちょこちょこ出てくる田戸砲台の
ものとも考えられそうですが、
そもそも、演習砲台は防御営造物に
該当するのかしら・・・
それとも、東京湾要塞司令部に
隷属した部隊の演習砲台だから
防御営造物になるのかな・・・
無知なことをぼやいていたら
ごめんなさいね m(_ _)m

ここまで来たのだから、
何とか紐解いてみたいのですが
なかなか難しそうです(涙)


【収録遺構】
 陸軍東京湾要塞司令部
 要塞砲兵第一連隊
 深田演習砲台

   門柱 1箇所
   観測所 1箇所
   軍用地境界標 1本


【探訪情報】
 2007.12.30  第1回探訪
 2014.07.06  第2回探訪

歩数(指数) 未計測(116)


これらは、ホームページでも
ご紹介する予定ですっ★


次回は「鉄道」ネタでブログを
更新しますので、よろしければ
またお越しくださいませ m(_ _)m



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皆様、いかがお過ごしでしょうか。


いや~、寒いっ!
明日も、関東地方はこんな天気が
続くのでしょうかね・・・


さて・・・
本日は祐実軍團「軍報」の
第126弾として、ほぼ「消失」した
陸軍航空部補給部所沢支部の
遺構群をご紹介します↓




陸軍航空部は、航空に関連する
器材の調達・保管・補給・検査などを
行う部署で、所沢市内で飛行大隊が
編成されたことにより、1919年(大正8) に
内部機関である補給部の支部が
所沢飛行場内に設置されました。

その後、航空部隊の拡充に伴い、
所沢飛行場の敷地内だけでは手狭となり、
1923年(大正12)に飛行場から少し離れた
所沢駅の西側へ補給部の一部が
移されました。

昭和に入ると、さらなる航空兵力の
拡充で、航空兵科が創設されたことに
伴って、飛行大隊は飛行連隊に
昇格して各務原飛行場へ移転し、
のちの組織改編によって、一時は
立川航空支廠の分廠に施設が
使用されますが、1938年(昭和13)に
現在の入間市に航空士官学校が
開設されると、器材の調達・補給を行う
材料部となりました。また、敷地内に
航空参考館が設置され、日本の
航空機設計に影響をもたらした
世界の軍用機を数多く展示しました。

少し前までは、西武鉄道の
所沢車両工場となっていましたが
現在は移転してしまい
所沢市による開発が行われ
更地になってしまい、
当時の遺構がことごとく
消失してしまいました(怒)



まったくよー、くだらない開発なんか
しやがって・・・(怒)

ホームページも修正だよ・・・
余計な作業まで増やしやがって(怒)


当時の建物が残ってたんですよ・・・↓




当時の塀です↓


googleのストリートビューで見ると
わずかな区間だけ残っていそうです。


軍用地境界標もあったのですが・・・↓



これは現存しているっぽいです↓



これも当時の遺構だと思うのですが
現在は跡形もなさそうです・・・↓



【収録遺構】
 陸軍航空部補給部
 所沢支部

   軍用地境界標 1本
   軍用地境界塀 1区画

   建物 2棟(消失)
   軍用地境界標 1本(消失)
   その他 1箇所(消失)

【探訪情報】
 2012.07.28  第1回探訪
 2012.09.15  第2回探訪
 2012.09.29  第3回探訪

歩数(指数) 未計測(116)


我々のホームページ上では
全て「現存遺構」として
掲載していますが、
後日、上記のように変更します(涙)


それでは、またっ!



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