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戦争遺跡のご紹介やホームページの制作状況などを綴っていきます♪

総軍BLOGへようこそっ!

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祐実総軍三等兵

Author:祐実総軍三等兵
全国に残る戦争遺跡を探訪し
記録することを趣味とする
祐実総軍三等兵ですっ★

稚拙な内容ではございますが
これまでに関係者の皆様方と
見てきた戦争遺跡を中心に、
ブログ・ホームページなどで
順次ご紹介をしていきます♪

よろしくお願いしますっ★

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皆様、いかがお過ごしでしょうか。


3連休の中日ですが、
腰痛・暑さ・金欠の3拍子(笑)が揃い
今後の探訪計画や調べものなどをして
家で過ごしております。


9月は我が総軍大元帥の
ご生誕月間ということもあり
今月いっぱいはおとなしくしようかと…


さて、今回は千葉県千葉市に
居をかまえた愛新覚羅溥傑別邸の
避難用防空壕を簡単にご紹介します↓




溥傑は、中国清朝のラストエンペラーである
愛新覚羅の溥儀の実弟で、
1937年(昭和12)に新婚生活を送るための
別邸が建設され、半年ほど居を構えました。

現在は貴重な和風別荘建築として
市の地域有形文化財に指定され
稲毛ゆかりの家として公開されており、
敷地内には避難用の防空壕も
残されています。



京成津田沼駅から京成千葉線に
トコトコと揺られまして…↓



京成稲毛駅で降り
京成千葉線を見送ります↓



まだ、この当時は
今やカエル軍団丞相(笑)の
サブ郎さんもいないので
一人でトボトボと稲毛ゆかりの家を
目指して歩いていきます↓



約10分ほど歩き
愛新覚羅溥傑仮寓の
稲毛ゆかりの家に到着です↓



玄関で職員さんから簡単な説明を
いただきまして、さっそく仮寓内を
見学していきます↓



とはいえ、こちらは探訪主旨と
ちょっと異なる案件になるので
軽めの見学です↓




間取り図を見ると、さすがは仮寓、
かなり大きな佇まいであることが判ります↓



各部屋は、ステキな和風建築です↓






ご結婚時の写真や、ここで過ごされた
スナップ写真などが展示されています↓




落ち着いた雰囲気の庭園に癒され
10分くらい部屋から眺めてました↓



館内常備のサンダルを履き
庭園に出ます↓



今度は仮寓の外観を
軽く見ていきます↓







庭園を歩き、裏手にまわります↓



仮寓から少し離れたところに
書斎があります↓



さらに奥へ進んだところに
今回のお目当てである防空壕が
残っています↓



防空壕はコンクリート製で、側面に
小さな窓が設けられています↓



背面に通風口と考えられる
小さな管が突き出ていました↓



原則、内部への立ち入りは禁止ですが
窓から内部の様子が判り、
2畳ほどの小さな部屋になっていました↓



時期が悪く、蚊の襲来がすごかったので
防空壕の見学は手短にすませ、
最後に記帳させていただきました↓



約1時間ほど滞在した後は
小仲台方面に進んでいき
高射学校跡に転進しました↓



【収録遺構】
 愛新覚羅溥傑仮寓
 防空壕

  地下施設 1箇所

【探訪情報】
 2020.09.13 第1回探訪

【市ホームページ】
 千葉市公式ホームページ
 千葉市観光ガイド


それでは、またお会いいたしましょうっ★



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皆様、いかがお過ごしでしょうか。


今月は、まだ販売関連の続編作業を
やってないもので、ブログの更新が
いい感じに出来ていますな(笑)


続編制作にも手を付けていかないと
拙い資料とはいえ、全てお手に取って
くださっているお客さまもいらっしゃるので
ぼちぼち時間を割かないと…


さて、今回は以前にご紹介した
下志津陸軍飛行学校の遺構群の
続編といたしまして、
千葉県千葉市におかれていた
移設格納庫(解体)をご紹介します↓



前回の記事に引き続き、
陸軍伍長さんと千葉公園に移動し
日本戦跡協会さんと合流して
解体直前の千葉公園体育館に
やってまいりました↓



こちらの千葉公園体育館は
1956年(昭和31)に完成し、
体育館として今日まで千葉市民に
利用されてきましたが、
千葉公園総合体育館の完成により
解体されることになりました↓

※写真は17年前の姿です。


行政・軍跡マニアとも、直前まで
陸軍気球連隊の移設格納庫と
認知されてきたものでしたが、
再検証が行われた結果、
戦後の建築資材不足を背景に
下志津飛行学校(現:下志津駐屯地)の
第六格納庫が基であったことが判り
歴史的価値と体育館利用者の思い出を
噛みしめる場として解体前見学会が
終戦記念日に催されることになり、今回は
それに先立ち、千葉公園管理者の方と
日本戦跡協会さんとの事前打ち合わせに
便乗参加させていただきました。



早速、職員さん方にご挨拶を済ませ
お別れ見学会の段取りや、今後の展開・
当日は日本戦跡協会さんのパネル展示を
行うなどのお話しをうかがいつつ
見学させていただきます↓



ご承知の通り、飛行機格納庫って
ものすごく大きいので、
全体を入れると普通の体育館と
変わらない感じがしちゃいますね…↓



大きすぎてフレームに収まらないので
写真で見ると迫力に欠けてしまうかも
しれませんが…↓



鉄骨を1つずつ見ていくと
「おお、すげぇ」となりますね↓



もちろん、接合はリベットです↓



構造力学には詳しくありませんが
鉄骨の角度 1つとっても全部に
きちんとした理由があると思うと
見ていて飽きません↓



お供のサブ郎さんも
今回はかなり熱心です(笑)↓



梁が複雑に交差するところが
個人的に大好きですね↓



解体前見学会当日は、
壁や床にマジックペンで
ラストメッセージを書くことが
出来るということで、先だって
ステージ上に書かせてもらいました↓



お供のサブ郎さんも
書いて欲しいとのことで
名前を入れておきました(笑)↓



土曜日なのに、わざわざ事前に
見学の場を設けてくださり感謝です↓



職員さんにお礼をして
この後は簡単に周辺の遺構を
ご案内させていただきまして…↓



久しぶりに3人揃ったので
夜は乾杯の儀(笑)でございます↓



【収録遺構】
 下志津陸軍飛行学校
 (下志津陸軍教導飛行師団)

  門柱 1箇所
  建物 1棟
  軍用地境界標 2本
  その他 1箇所

  建物 1棟 (今回追加)


【探訪情報】
 2006.08.27 第1回探訪
 2007.05.01 第2回探訪
 2007.05.21 第3回探訪
 2023.08.11 第4回探訪
 2023.08.15 第5回探訪


いつもであれば、ブログの記事は
ここで終わるのですが…


お別れ見学会当日もサブ郎さんと
参加させていただきました↓



この日は台風の上陸が
危惧されましたが、実際は反れて
暑い日になり来場者は多かったです↓



事前に見せてもらっているので
今回はみんなの邪魔にならないよう
隅っこで細々と梁を見学していたら
わざわざ職員さんが小走りで
「来てくれたんですね、
ありがとうございます」と
声をかけてきてくれて嬉しかったです↓



解体前見学会の翌日から工事が入り
順次取り壊されると聞いているので
思い残すことのないように
じっくりと梁を見ていきます↓







こちらは宣伝ですが、インスタに
梁全体を映した動画を載せてるので
よろしければ併せてご覧ください↓

 カエルのInstagram


お供のサブ郎さんと、
もう座ってもらうこともない
観客席に座りながら梁を見てると
徐々に脳内がしんみりとしてくるもので
私は心から軍跡が好きなんだなぁ…と
改めて認識しちゃったり(笑)もして
一人でゲラゲラ笑っちゃったのは
ここだけのお話しです(笑)↓



お別れ見学会そのものは、
軍跡…というよりかは、過去に
体育館を利用されていた方々が
その思い出を噛みしめる場としての
色合いが強かったですが、
格納庫の梁を撮影されている方も
多くいらっしゃって、
最後に移設格納庫であったことが
広く認知されたんじゃないかと
感じました↓



ラストメッセージも
たくさん書かれていて
とてもよかったです↓



解体前に、最後の姿を
きちんと一般公開してくれる
千葉市の取り組みは
本当にステキだなと思いました↓




それでは、またお会いいたしましょうっ!



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皆様、いかがお過ごしでしょうか。


今日は、11年お仕え(笑)している
我が総軍大元帥の生誕日でして
家は祝日でございます。


ここのところ、ブログの更新に
気持ちがノリノリ(笑)なので、
祝宴の前にしれっとやります★


さて、今回は群馬県富岡市に疎開した
陸軍中野学校の接収建物群を
何回かに分けてご紹介いたします↓




中野学校は、諜報や防諜などの
秘密戦に関する教育や訓練を目的とした
陸軍学校の 1つで、東京の中野に
校舎がおかれていました。

1945年(昭和20)に入ると
空襲が激化したことで
富岡市内に疎開し、国民学校などの
施設を利用して講義が続けられました。

現在、中野学校の施設に使われた
建物の多くは文化財に登録されており
保存されています。



めぐさんご一家と一緒に
群馬県の西部に位置する
富岡市内に入りました↓



あいにくのお天気での探訪ですが
まずは兵舎・講堂に使われた
富岡市社会教育館を見ていきます。


当時の入口でもある門構えも
木造の重厚な造りです↓



兵舎・講堂は、もともと
1934年(昭和9)に行われた
陸軍特別大演習の視察のために
天皇陛下が群馬県を行幸されたことが
契機となり1936年(昭和11)に建設された
東國敬神道場で、有形文化財にも
指定されています↓



敷地内に、それを記した
碑が建立されています↓



さっそく、職員さんに探訪の主旨を
お伝えしたところ、同行しながら
館内を説明してくれました↓



建屋の西側は兵舎・東側は講堂に
使われたそうで、これらを結ぶ廊下は
畳と板張りにわかれています↓



これにもきちんと理由があって
畳敷きのところは将校クラスしか
歩くことが出来なかったそうです↓



廊下の最東端は講堂として使われた
建物に繋がりますが、残念ながら
この日は他の団体で使っていたため
内部見学を諦めました↓



めぐさんご一家に混じって
お供のサブ郎さんも
熱心に見学中です(笑)↓



今度は廊下を西側に進んでいき
兵舎として使われた大部屋を
見ていきます↓



大部屋も隅々まで掃除が行き届き
とてもステキでした↓




最西の部屋は多目的室として
リフォームされています↓



各部屋の入口には
部屋名が書かれた木札が
付けられており雰囲気があります↓



上官用の部屋は、かなり
造りが異なりますね↓



見どころが多すぎて
予定時間を大幅にオーバーし
そろそろ次の遺構に…と
移動しようとしたら、
昭和9年の特別大演習の古写真や
東國敬神道場時代の古写真もあり
じっくり拝見しちゃいました↓





最後にこちらのパンフレットも
いただきました↓



次の遺構に移動する前に
外観を撮っておきます↓





さあ、次の遺構…と移動を始めたら
一之宮貫前神社に続く参道沿いに
碑があることに私以外が気が付き(笑)
車をおりて見てみたら、
行幸記念碑や戦忠碑が
建立されていたことが判りました↓





この後は、中野学校の本部に
進みましたが、この続きは
次回の記事にさせてください↓



【収録遺構】
 陸軍中野学校

  門柱 1箇所
  建物 2棟

【探訪情報】
 2023.04.15 第1回探訪


それでは、またお会いいたしましょうっ★



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皆様、いかがお過ごしでしょうか。


いったん、9月からブログの更新を
再開しよう!!ということで、空いた時間で
取り組み始めましたが、
半年近く触ってなかったもので
従前の感覚を忘れてしまいまして
難儀しております(笑)


ブログの始まりが2014年からなので
9年近くやっていたはずなのですが
半年やらないだけでこんなになるとは…


探訪も疎かにすると、
きっとこんな感覚になっちまうと思うので
気を付けないといけませんねっ★


さて、今回は千葉県千葉市におかれた
下志津陸軍飛行学校の遺構群を
数回に分けてご紹介させていただきます↓




下志津飛行学校は、航空機の操縦や
射撃・爆弾投下・偵察などの
訓練を目的として1921年(大正10)に
この前身の陸軍航空学校の分校が
設置されたことにはじまり、
1924年(大正13)の改編により
飛行学校の1つとして独立し
飛行兵の拡充のため、
銚子や八街などにも分教所が
設置されるまでに拡大しました。

しかし、1944年(昭和19)に入ると
太平洋戦争の戦局が悪化したことで
閉鎖となり、飛行学校を戦力化して
編成された下志津教導飛行師団として
戦闘に加わることになり、
およそ100名が特攻隊員として
前線基地へ出撃していきました。

跡地は、陸上自衛隊下志津駐屯地や
住宅地に変遷しており、
面影がなくなっていますが
門柱や軍用地境界標などが
残存しています。



16年ぶりに四街道駅に降り立ち
今回は陸軍伍長さんと一緒に
下志津駐屯地を目指します↓



途中、重厚な門柱が目につき
「おおっ★」となりましたが
後で調べたところ、
尋常小学校時代のものだそうで…↓



陸上自衛隊下志津駐屯地の
正門に使われている門柱は
古写真から当時のものと判明↓


こんな重厚で大きな門柱を
他の案件で見たことがなかったので
昔は疑ってかかっていたのですが、
飛行学校の古写真を見る機会があり
見事にこのまま写ってました(笑)


門柱脇の塀も新しい感じですが
区画がそのままなので、
当時の塀をリフォームしたもので
間違いないです↓



自衛隊の敷地内の残存遺構に詳しい
日本戦跡協会さんの調べによると、
下志津駐屯地内に1棟だけ
建物が残っていることが判明しており
施設配置図と終戦直後の
航空写真に照らし合わせると
おそらく、第二格納庫ですねっ★↓

※当方は見学出来ていないので
 Google空撮のキャプチャ―です。


正門前から東にのびる道路も
当時のもので、一部でその区画が
残っています↓



その延長線上で、お供のサブ郎さんが
軍用地境界標を見つけました↓



標石は1辺が15センチほどもある
大きなもので、「陸軍」の記載と
側面にアラビア数字の「1」が入り
見づらいですが、上部に敷地境界線も
刻まれていましたっ★


1本見つけてしまうと、メラメラ(笑)となり
他にもないか、周辺を丁寧に歩きましたが
もう1本を確認出来たのみでした…↓



後続の探訪が控えていたため
時間の関係で深追い出来ませんでしたが
後日、ストビューで境界線を追ってみたら
敷地の南東にもあるっぽい感じでした。


四街道市内の軍跡探訪をした後は
日本戦跡協会さんと合流して
下志津陸軍飛行学校の第六格納庫を
移して建設された千葉公園体育館を
見学しましたが、こちらは後日の
記事にさせていただきますね↓



【収録遺構】
 下志津陸軍飛行学校
 (下志津陸軍教導飛行師団)

  門柱 1箇所
  建物 1棟 (今回追加)
  軍用地境界標 2本 (今回追加)
  その他 1箇所 (今回追加)

【探訪情報】
 2006.08.27 第1回探訪
 2007.05.01 第2回探訪
 2007.05.21 第3回探訪
 2023.08.11 第4回探訪


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皆様、いかがお過ごしでしょうか。


3月に入っても朝夜が寒いですが
日中は過ごしやすい陽気になり
いよいよ春の訪れでしょうかね。


探訪シーズンも終焉が近いですが
今シーズンは…ですね(涙)


大事な時に成果が出せないのは
かなり悔しいですが、
もう若くはないので無理せず
やっていこうと思います。


さて、今回は和泉軍團「軍報」の
第136弾といたしまして
千葉県館山市におかれていた
館山海軍砲術学校の射撃場の遺構を
簡単にご紹介させてください↓




犬石射撃場は、館山砲術学校
射撃演習場として学校の南東側に
設置されました。

戦後、跡地は開墾されて
大半が畑地に変遷しており、
面影がまったくありませんが
コンクリート製の監的壕が
残存しています。


ブログ復帰初回は館山市から
スタートしていきます↓



犬石射撃場のど真ん中をはしる
農道を北上していくと…↓



突き当たりにコンクリート製の
大きな監的壕が残っています↓



パッと見た感じでは
ただのコンクリート壁ですが…↓



上にあがってみると
内部に水が溜まっちゃってますが
他の射撃場の監的壕と同じ
造りであることが判ります↓



久しぶりの軍跡紹介…ということで
お供のサブ郎さんも熱心に
見学をしているところです(笑)↓



見づらいですが、監的壕から
上にあがるための鉄製の梯子が
設けられています↓



サブ郎さんは気が付いてませんが
監的壕のコンクリートからは
鉄筋が露出している部分もあります↓



監的壕からふり返ると、
射撃場の区画が、よい状態で
残っていることが判ります↓




遺構の内容としては
あまりパッとしないものですが
状態はよいので、このまま
残して欲しいところですね↓



名残惜しいですが、
次の案件に進んでいきます↓



【収録遺構】
 館山海軍砲術学校
 犬石射撃場

  その他 1箇所

【探訪情報】
 2021.12.10 第1回探訪

 歩数(指数) 未計測(100)


それでは、またお会いいたしましょうっ!



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