戦争遺跡のご紹介やホームページの制作状況などを綴っていきます♪

総軍BLOGへようこそっ!

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祐実総軍三等兵

Author:祐実総軍三等兵
全国に残る戦争遺跡を探訪して
記録することを生き甲斐とする
祐実総軍三等兵でございます★
稚拙な内容ではございますが、
これまで調べてきた戦争遺跡を
ブログ・ホームページで紹介を
させていただいておりますっ♪

よろしくお願いしますm(__)m

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皆様、いかがお過ごしでしょうか。

三等兵は「故障」です(笑)
朝、起きたら熱があったため
今日は出庫を断念しましたっ!
もはや、ここまで来れば
「使い捨て」同然ですので
お咎めもないという感じでしょうか。

家でも職場でも風邪ひいてる人が
自分の身近にいるためなのか、
遷ったのでしょうか・・・

今日は車庫で「休車」としますが、
こういう日を有効に使わなくてわっ! ニヤリ
我々のホームページに登場する
キャラクター達のデザインを
一手に引き受けていただいている
ナルナル先生から作品が来たので
ゆっくりと鑑賞させていただこうっと(笑)

ナルナル先生!後で返信しますね~★


さてさて、そういった訳でございまして
この時間からブログの更新です。

今回は、既出案件となりますが
房総半島戦跡考古調査会の皆様と
追加の遺構収録がかなった
千葉県富津市の金谷砲台を
ご紹介させてくださいませ↓




金谷砲台は、東京湾の防衛を
目的に設置された東京湾要塞の
1つで、関東大震災によって
使用不能となった周辺砲台の
応急措置として1924年(大正13)に
竣工しました。

竣工当初は、15cmカノン砲が
4門据え付けられ防備についていましたが
昭和に入り増築され150cm探照灯・
10cmカノン砲4門を増強配備し
さらに、アジア太平洋戦争時には
28cm榴弾砲も2門据え付けられますが、
後に横須賀と函館の防備のために
15cmカノン砲が撤去され、
残った火砲編成で終戦まで
防備につきました。

戦後、砲台跡地に遊園地が建設され、
このうち遺構の一部が施設に
利用されましたが、現在は閉園しており
山中に放置されています。



いにしえの重鎮の皆様方と
富津市にお邪魔しております↓


金谷のフェリー乗り場で
4名の豪傑と合流して
背面の山を目指して上ります。


兵舎の遺構が残ります↓





防御営造物境界標も残ります(抜粋)↓



境界標は、現時点で8本の残存を
確認していますが、山狩りはしていないので
このほかにも残るものと思われます。


10センチカノン砲の砲座です↓




今は入れなくなってしまった
砲側弾薬庫兼地下通路です↓



弾薬庫の内部です↓


地下通路は十字に展開しており
入口が4箇所設けられていました↓



初回の探訪から、
10年以上経過した2017年5月に
房総半島戦跡考古調査会の皆様と
再び探訪する機会をいただきました↓


再び、山を上っていきます★


探照灯格納庫です↓



探照灯座です↓
P1230463.jpg


これらも関連する遺構でしょうね↓




山の麓付近にも遺構が残ります↓



配置図を見ると炸薬填実所であると
思われる建物跡です↓



装薬調製所の建物基礎です↓



その背面部分には関連する
建物が残っています↓



建物の横に水槽が残ります↓



これも関連する建物跡でしょうね↓



道路を挟んだ向かい側にも
看守衛舎と付属遺構が残ります↓





鳩舎です↓



油庫です↓



maya先生ブログから
記念写真を拝借しました(笑)↓



いや~、仲間と探訪するのは
本当に楽しいですねっ★


【収録遺構】
 陸軍東京湾要塞
 金谷砲台

  砲座 2箇所
  地下施設 1箇所
  建物基礎 1箇所
  軍用地境界標 8本
  その他 2箇所

 ---今回追加---
  地下施設 1箇所
  建物 5箇所
  建物基礎 2箇所
  その他 6箇所


【探訪情報】
 2006.01.29   第1回探訪
 2006.11.19   第2回探訪
 2017.05.14   第3回探訪

 歩数(指数) 約10,000歩(450)


追加分は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★


明日は、飲み会があるので
ブログの更新をお休みしますm(_ _)m


それでは、またお会いいたしましょうっ!



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皆様、いかがお過ごしでしょうか。

昨日は帰りが深夜になってしまい
寝ることが出来なかったので
今日は早めに布団へ行きます(笑)


さてさて、本日は前回に続きまして
和泉軍團「軍報」の第51弾として
栃木県大田原市におかれていた
金丸原飛行場の飛行機掩体を
1つだけご紹介させてください↓




所沢陸軍飛行学校は、航空機の
操縦に従事する航空兵科の将校・
下士官の教育を目的として
1924年(大正13)に発足しました。

昭和に入ると、金丸原演習場
敷地の一部に、所沢飛行学校の
不時着場が設置されたことを
皮切りにして、飛行兵の拡充を
目的に分教所が設置されました。

その後は、母体が所沢から
熊谷・宇都宮と改編されましたが
終戦末期は飛行学校を
軍隊化したことにより編制された
常陸教導飛行師団の拠点と
なりました。

現在、敷地のほとんどが
畑地に変遷しており、
面影が全くありませんが、
飛行機掩体が 1つ残存しています。



前回の探訪に引き続き、
遠征時のパートナーでもある
おピンちゃん先生と大田原市内に
お邪魔しております↓



飛行機掩体が 1つ残っています↓



【収録遺構】
 所沢陸軍飛行学校
 金丸原分教所
 (熊谷陸軍飛行学校
  金丸原分教所,
  宇都宮陸軍飛行学校
  金丸原分教所,
  常陸教導飛行師団
  金丸原飛行場)

  飛行機掩体 1箇所

【探訪情報】
 2017.06.10   第1回探訪

 歩数(指数) 1,208歩(100)


詳細は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★


明日は久々に「鉄道」ネタで
ブログの更新をさせてください。


それでは、また明日っ!



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 (のちほど、お返しポチも
 させていただきますね~)
皆様、いかがお過ごしでしょうか。


関東地方はスッキリしない
天気が続いていますね・・・


朝、小雨がぱらついていたので
以前にコンビニで調達した
安いビニール傘を持って
出たのですが、傘をさそうと
ワンタッチボタンを押したら
ビニール傘と骨組みが
完全に分離しちゃいました~
あまりにも豪快な壊れ方をしたので
噴き出しちゃいました(笑)


さてさて、本日は和泉軍團「軍報」の
第50弾といたしまして、
先日の那須温泉旅行で立ち寄った
栃木県大田原市におかれていた
金丸原演習場の遺構を
1つだけご紹介させてください↓




金丸原演習場は、陸軍第十四師団に
所属する部隊の兵科演習場として
1912年(明治45)に設置され
これに隣接して演習に来た
将兵のための宿泊施設が
おかれていました。

昭和時代に入ると、敷地の一部が
所沢陸軍飛行学校の不時着場に
指定されますが、演習場は終戦まで
存続していたようです。

現在、敷地のほとんどが
畑地に変遷しており面影が
全くありませんが、将兵のための
宿泊施設が設置されていた場所に
門柱が残存しています。



おピンちゃん先生と一緒に
大田原市に寄らせてもらいました↓



今回はkan先生ブログ
参考にさせていただきまして
探訪をしていきます。


門柱が残っています↓



門柱の裏側にまわってみました↓



このほか、門柱の脇に建つ民家の
敷地内にも廠舎の遺構が
残っているそうですが、
あまり時間がなかったので
今回はこれで引き揚げました~


【収録遺構】
 陸軍第十四師団
 金丸原演習場

  門柱 1箇所

【探訪情報】
 2017.06.10   第1回探訪

 歩数(指数) 約500歩(100)


明日は恒例の運動会があるので
ブログの更新をお休みします m(_ _)m


それでは、またお会いいたしましょう!



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皆様、いかがお過ごしでしょうか。


月曜日は本当に憂鬱ですね。。。
もうこんな時間ですか・・・


さて・・・
本日は既出案件となりますが
和泉軍団「軍報」の第49弾として
千葉県習志野市におかれていた
陸軍鉄道連隊の遺構を
簡単にご紹介させてくださいませ↓




鉄道連隊は、戦地で鉄道の敷設を行い
兵員や兵器・物資などの輸送を担当する
鉄道専門の部隊として、この前身である
鉄道大隊が1896年(明治29)に
東京の市ヶ谷におかれていた
陸軍士官学校内に創設されたことが
はじまりです。

その後、中野に兵営を移設して
義和団事変や日露戦争に出征し、
鉄道の修復や砲弾の輸送などを行い
大きな実績を出したことから
「連隊」に昇格し、習志野市の
津田沼に兵営を移転させました。

その後、隷下の第三大隊を除く
部隊は千葉市に移りますが、
大正に入ると連隊はさらに拡大し
2つの連隊を抱えることとなって、
第三大隊は「鉄道第二連隊」に昇格し
その後に発生した関東大震災では
鉄道の復旧作業に第一連隊と
連携して活躍をしました。

1931年(昭和 6)の満州事変以降は
次々と中国戦線に投入され、
占領した鉄道の運営や大陸を結ぶ
新たな鉄道の敷設工事に従事し
設営先で終戦を迎えました。

現在、兵営跡地は千葉工業大学や
集合住宅地となっており、
当時の面影が残っていませんが
当時の門柱が指定文化財として
保存されており、このほかに
イトーヨーカドー向かい側の公園にも
連隊で使用された機関車が
保存されています。



いっちゃん先生と暑いさなかに
津田沼周辺にお邪魔しています↓



懐かしい・・・
高校時代は、よく津田沼で
遊んで帰ってたな~(笑)


三等兵の母校で、進学者が
最も多かった千葉工業大学の
入口は当時の正門です↓


案内板も立てられています↓



JR総武線を挟んだ向かい側の公園に
演習に使用された蒸気機関車が
保存されています↓



こちらも案内板付きです↓



【収録遺構】
 陸軍鉄道連隊
 (陸軍鉄道第二連隊)

  門柱 1箇所
  その他 1両

【探訪情報】
 2005.08.20   第1回探訪

 歩数(指数) 約2,500歩(100)


それでは、また明日っ!



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皆様、いかがお過ごしでしょうか。

三等兵は、火曜日にして
早くもおなかいっぱいですっ!
気持ちは1週間分働きましたよ(笑)

早く、週末にならないかな・・・


さてさて、本日は和泉軍團「軍報」の
第48弾といたしまして
千葉県いすみ市におかれていた
海軍技術研究所太東実験所の遺構を
簡単にご紹介させてくださいませ↓




海軍技術研究所は、兵器類の
研究や開発を行う目的で
1923年(大正12)に設置された
海軍の研究機関です。

太平洋戦争が開戦されると、
敵航空機を早期に発見し
迎撃するための
電波探信儀(レーダー)の開発が
行われるようになり、
1943年(昭和18)に実験所が
おかれました。

ここには、大型1基・小型4基の
電波探信儀と付属建物が
設置され、終戦まで機能が
存続しました。

終戦後、施設はアメリカ軍に
爆破されましたが当時の遺構が
わずかに残っています。



今回は、いっちゃん先生と
OKN先生と一緒に太東崎灯台へ
来ております↓



電波探信儀の台座が残ります↓



台座の脇に解説板が
設置されています↓



これも建物跡であると
推測していますが・・・↓



【収録遺構】
 海軍技術研究所
 太東実験所

  その他 2箇所

【探訪情報】
 2015.02.08   第1回探訪

 歩数(指数) 約200歩(100)


それでは、また明日っ!



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