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戦争遺跡のご紹介やホームページの制作状況などを綴っていきます♪

総軍BLOGへようこそっ!

♦ プロフィール

祐実総軍三等兵

Author:祐実総軍三等兵
全国に残る戦争遺跡を探訪し
記録することを趣味とする
祐実総軍三等兵ですっ★

稚拙な内容ではございますが
これまでに関係者の皆様方と
見てきた戦争遺跡を中心に、
ブログ・ホームページなどで
順次ご紹介をしていきます♪

よろしくお願いしますっ★

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皆様、いかがお過ごしでしょうか。


三等兵は、引き続き年内最後の
遠征に出ておりますっ★

探訪期間中は、ブログの更新に
手がまわらないため、事前に
書き溜めておいたものを
掲載させてくださいませ m(_ _)m


さて、今回はバックナンバーである
和泉軍團「軍報」の第106弾の続編として
千葉県木更津市におかれていた
木更津第二海軍航空廠の工員宿舎のうち
第二宿舎の遺構をご紹介させてください↓



なお、これは「後続記事」ですので
「本記事」もご覧くださいませ↓

 (106)木更津第二海軍航空廠



前回の記事に引き続き、
マッキー先生と木更津市内に
お邪魔をしております↓



工員宿舎は、現在も民家として
使用されているものもあるため
詳細は伏せますが、高柳地区に
6棟ほどの残存を確認しました↓








敷地の中央付近に、水道施設の
遺構が残っています↓



背面にまわると、盛土から
コンクリートが一部分だけ
露出しています↓



これもコンクリートの材質から
当時のものと思われます↓



敷地を1周したあとは、第三宿舎跡に
向かっていきます↓



【収録遺構】
 木更津第二海軍航空廠

   建物 3棟
   その他 1箇所
   建物 6棟(今回追加)
   その他 2箇所(今回追加)

【探訪情報】
 2004.10.09  第1回探訪
 2011.02.26  第2回探訪
 2018.12.06  第3回探訪

 歩数(指数) 未計測(136)


後ほどホームページ内にも
追加させていただきますねっ♪


それでは、またお会いしましょうっ★



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 ひとつよろしくお願いします♪

皆様、いかがお過ごしでしょうか。


今度の週末から年内最後の大遠征として
神奈川・静岡・愛知・岡山・鳥取・島根・
広島・京都の遺構群を10泊11日で
まわる探訪に出掛けてまいります。


京急に例えるならば、付属の4両として
各地にお住まいのフォロワー様の
主軸8両に各方面でぶら下がり、
12両編成で運行するようなものです。


探訪期間中は、ほぼ2日に1度の
ブログの更新に手がまわらないため
事前に書き溜めておいたものを
掲載させてくださいませ m(_ _)m


さて、本日は和泉軍團「軍報」の
第106弾といたしまして、
千葉県木更津市におかれていた
第二海軍航空廠の巌根工場の
遺構群をご紹介させてください↓




第二海軍航空廠は、海軍航空機の
造修と補給を行うことを目的として
それまで木更津におかれていた
横須賀海軍航空技術廠の出張所を母体に
1941年(昭和16)に開設されました。

ここには兵器部と発動機部・飛行機部・
補給部が設置され、航空兵器や材料の
造修や供給に携わりました。

また、鈴鹿や硫黄島に分工場と
館山や香取・平塚横須賀などにも
補給工場がおかれ、一時期は日本最大の
海軍航空機の修理工場として
機能したといわれています。

木更津に設置された本工場(巌根)に
関していえば、航空機の消耗が
激化したことによって拡張を迫られ
君津市にも分工場が設置されています。

1944年(昭和19)に入ると戦局が逼迫し
空襲が危惧されたため、工場機能の
疎開が開始され、周辺の学校や寺・
民間工場などに分散されましたが
のち、君津市と富津市の境界にあたる
山に地下工場が建設されると集約され
地下工場の完成部分に機械類を搬入し
造修ラインを維持しました。

現在、本工場の跡地は航空自衛隊の
木更津第一補給処や木更津倉庫などの
敷地となっており、当時の遺構が
わずかに残っています。



今回も臨時に参戦してくれた
マッキー先生と一緒に
木更津の巌根付近にお邪魔中です↓



敷地の東側に、広く知られる
発動機試験場の建物が残ります↓



隣接して飛行機部の木工所が
残っています↓



また、市道沿いに当時の塀の跡が
残っています↓



航空自衛隊木更津分屯基地にも
以前はノコギリ屋根の工場建物が
残っていたのですが、残念ながら
現在はご覧のありさまです・・・↓



敷地の北西端付近にも
昭和21年の航空写真に写る
煉瓦製の建物が残っていますが
ちょっと詳細は判りません↓



このあとは、宿舎関連の遺構が残る
高柳地区へ進んでいきます↓



【収録遺構】
 木更津第二海軍航空廠

   建物 3棟
   その他 1箇所

【探訪情報】
 2004.10.09  第1回探訪
 2011.02.26  第2回探訪
 2018.12.06  第3回探訪

 歩数(指数) 未計測(100)


後ほどホームページ内でも
ご紹介させていただきますねっ♪


それでは、またお会いしましょうっ★



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皆様、いかがお過ごしでしょうか。


昨日の富津・木更津探訪の疲れを
ひきずってしまい、仕事でもないのに
腑抜けにダラダラと過ごしてます(笑)


今日は、今後の探訪計画も
事前の下調べもせずに、
終日こんな感じでやっていこうかと
思っているところです。


さて、本日は和泉軍團「軍報」の
第105弾といたしまして、
群馬県伊勢崎市におかれていた
中島飛行機の伊勢崎工場の
モニュメントを1つご紹介します↓




中島飛行機は、1917年(大正 6)に
創設された民間の航空機製作会社で
特筆に値する製作戦闘機に「隼」や
「疾風」などがあり、戦前の日本を
代表した陸軍・海軍御用達の
戦闘機製造会社として
「零戦」などの設計で有名な
三菱重工業と双璧をなします。

昭和に入ると近代戦の主力が
航空機となり、戦闘機の需要が
急激に伸び、群馬県の太田市に
かかえていた工場だけでは
生産が間に合わず、全国各地に
工場が設置され、その中で
伊勢崎工場は、海軍が使う
戦闘機の機体を組み立てた
小泉製作所が管轄する部品工場として
1942年(昭和17) 9月に開設し、
末広町に第一工場・平和町に第二工場が
設置されました。

ここでは、ボルトやナット・油圧関連の
部品が製造され約6,000人の工員が
作業に従事していましたが、
太平洋戦争における最後の
本土空襲といわれる
1945年(昭和20) 8月15日の
伊勢崎空襲で被災し終戦となりました。

戦後、伊勢崎工場は富士重工の工場に
変遷し、日本のモータリゼーションの
先駆けとなった軽自動車「スバル360」を
最初に生産して有名になりましたが
現在は第一工場が富士重工の関連企業・
第二工場は商業施設になり、
第二工場の東側の側面部分が
移設されており、商業施設内に
モニュメントとして保存されています。



おピンちゃん先生と一緒に
新伊勢崎駅に到着しております↓



ここから10分ほど歩いて
モニュメントが保存されている
とりせんに向かっていきます↓



とりせんの入口付近に
第二工場の東側の側面部分が
移設保存されています↓



案内板も設置されていますが
中島飛行機ではなく、富士重工の
建物跡として触れていました↓



もっとも、第二工場は1912年(明治45)に
建設された、この前身の上毛撚糸の工場を
中島飛行機が買い取ったものなので
厳密には中島の建物でもないですが・・・


残念ながら、保存されているのは
壁面部分だけなので薄っぺらいです↓



新伊勢崎駅から第二工場方向を
見るとこんな風景が広がっています↓



少し歩き疲れたので、帰りは
太田駅で普通電車を降りて・・・↓



特急りょうもう号に乗り換えて
本拠に帰還いたしました↓



【収録遺構】
 中島飛行機小泉製作所
 伊勢崎工場

   その他 1箇所

【探訪情報】
 2018.11.30  第1回探訪

 歩数(指数) 未計測(100)


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皆様、いかがお過ごしでしょうか。


昨日の朝は部屋が寒くて
ストーブをつけてブルブルしてましたが
外の気温は高かったですねっ!

西日本の一部地域などは
25℃を超える夏日だったとか・・・

冬の時期は、我々にとっては
軍跡探訪シーズンですが、
私は寒いのが不得意なので
春の陽気で草は枯れ枯れ・
日照時間は12時間以上は
欲しいなどといった
自己中心的な要望をします(笑)


さて、本日は和泉軍團「軍報」の
第104弾といたしまして、
茨城県石岡市におかれていた
第一〇八一海軍航空隊石岡分遣隊の
飛行機掩体を1つだけご紹介します↓




第一〇八一海軍航空隊は、
航空用需品の空輸や航空機の
輸送・護衛を行う部隊として
1944年(昭和19)に編制され、
主に本土内や硫黄島に向けた
輸送を担当しました。

資料が乏しいため、詳細は
判っていませんが、太平洋戦争の
末期に、この分遣隊が使用する
航空基地が現在の石岡市に建設され
長さが1,200メートル・幅が300メートルの
滑走路と30基以上の飛行機掩体が
完成したようです。

現在は住宅や農地・商業施設などに
変遷して面影がなくなっていますが
滑走路の区画が判るほかに
土製の飛行機掩体が残ります。



今回、臨時に参戦してくれた
マッキー先生と一緒に
石岡市内にお邪魔しています↓



滑走路跡の北東にあたる
藪の中を少しだけ入ります↓



林の中に土製の飛行機掩体が
残っています↓



飛行機掩体は馬蹄形に
土が盛られただけの
無蓋式に分類されます↓



実際に行って見てみると
区画がハッキリと判るのですが、
写真では何だか判りませんね・・・↓



上の写真を補足すると
黄色のラインが盛土部分です↓



資料によると、飛行機掩体は
このほかに同様のものが
2基残っているようなので
周辺を捜索してみましたが、
商業施設の建設によって
壊されてしまったようです・・・↓



【収録遺構】
 第一〇八一海軍航空隊
 石岡分遣隊

  飛行機掩体 1箇所

【探訪情報】
 2018.11.26  第1回探訪

 歩数(指数) 未計測(88)


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皆様、いかがお過ごしでしょうか。


3連休も今日で終了ですね。
廃車以降は、日々の経過が
ものすごく早く感じます・・・


本来、やりたかったことに
集中出来ているから
そのように感じるのでしょうが、
もう少し成果が欲しいところです。。。


さてさて、本日は和泉軍團「軍報」の
第103弾といたしまして、
千葉県八街市におかれていた
下志津陸軍飛行学校八街分教所の
遺構をご紹介させてくださいませ↓




下志津陸軍飛行学校は、
主に航空偵察の教育を行う目的で
埼玉県所沢市におかれた
航空学校から独立して1924年(大正13)に
開設され、千葉市に校舎や飛行場が
設置されました。

1941年(昭和16)3月に入ると
学校が拡張され、八街と銚子に
分教所が設置されることになりました。

しかし、太平洋戦争の戦局悪化に
ともなって学校は閉鎖され、
1944年(昭和19) 6月から
下志津教導飛行師団の
第二飛行隊が展開して戦力化され
特攻作戦の一部を引き受けるために
前線基地へ出撃していきました。

戦後、跡地は食糧を増産するために
畑地化され現在に至っていますが、
格納庫と思われる建物基礎部分や
誘導路の一部などが現存しており
見学することが可能です。



本拠から約2時間をかけて
八街駅に到着いたしました↓



今回は単騎で、兵舎・格納庫が
おかれた朝日地区を目指して
トボトボと歩いていきます↓



敷地の西端部分にあたる
畑地付近に軍用地境界標が
2つ残っていました↓




西端部分から兵舎・格納庫地区に
入っていきます↓



用途は不明ですが、コンクリートの
質感から当時のものと思われます↓



民家の庭にも防火水槽が残ります↓



誘導路跡も一部が残ります↓



その背面に、関連した建物の
基礎部分が残っています↓




このほか、道路沿いにも
誘導路のコンクリートを剥がした跡や
建物を壊した跡などが残っています↓



兵舎・格納庫地区をはしる道路を
片っ端から歩いてみたものの、
遺構を見つけることが出来ず
今回はこれで引き揚げます↓



【収録遺構】
 下志津陸軍飛行学校
 八街分教所
 (下志津陸軍教導飛行師団
  八街飛行場)

  建物基礎 3箇所
  その他 1箇所
  軍用地境界標 2本(今回追加)
  その他 2箇所(今回追加)

【探訪情報】
 2009.04.29  第1回探訪
 2018.11.24  第2回探訪

 歩数(指数) 未計測(100)


後ほどホームページ内でも
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