戦争遺跡のご紹介やホームページの制作状況などを綴っていきます♪

総軍BLOGへようこそっ!

♦ プロフィール

祐実総軍三等兵

Author:祐実総軍三等兵
全国に残る戦争遺跡を探訪して
記録することを生き甲斐とする
祐実総軍三等兵でございます★
稚拙な内容ではございますが、
これまで調べてきた戦争遺跡を
ブログ・ホームページで紹介を
させていただいておりますっ♪

よろしくお願いしますm(__)m

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皆様、週末をいかがお過ごしでしょうか。

ただいま遠征から戻ってまいりましたっ!
次回の遠征は5月の中旬以降になるかと・・・
愛知・岐阜・兵庫にお邪魔予定ですっ★

さてさて、美恵軍團「軍報」の第3弾は
愛知県豊橋市におかれていた
陸軍第三師団歩兵第十八連隊の
遺構紹介をさせてくださいませっ。

歩兵第十八連隊は、陸軍師団編成の
前身である名古屋鎮台に隷属した部隊で
1886年(明治19)に豊橋へ移駐し、兵営が
設置されました。その後、師団創設にともない
第三師団の基幹部隊となり日清戦争・日露戦争に
出征して参戦しました。

日露戦争後は、軍備拡張にともない創設された
第十五師団に隷属先が変更されたものの、
大正末期の軍縮で師団そのものが廃止となり
再び第三師団の隷属となりました。

昭和に入ると、日中関係が泥沼化したことにより
1928年(昭和 3)に発生した済南事件を皮切りに
中国戦線へと投入され、この時に隷属先が
満州で新たに編制された第二十九師団になりましたが
1944年(昭和19)より南方作戦への参戦が決まり
満州からサイパンに移動する際、アメリカ軍の
魚雷攻撃によって輸送船が沈没し、連隊主力を
失いました。また、サイパンに上陸出来た残存部隊も
グアム島の守備につきましたが、形勢が不利で
アメリカ軍の猛攻に押され、夜間攻撃を行って玉砕し、
壮絶な最期を遂げたそうです。

現在、歩兵第十八連隊の跡地のほとんどが
豊橋公園となっていますが、いくつか当時の遺構が
残っており、見学することが可能です。


愛知県豊橋市にある豊橋公園にやってきました↓
P1060803.jpg


まずは公園入口付近に残る正門です↓
P1060769.jpg

門柱は煉瓦で造られており、表面部分には
モルタルが施されています。また、照明の
傘部分と思われる金属片や門扉を接合した
金属片などが残っており、残存状態は良好です。

現在は、豊橋公園の正門に使われており、
公園のシンボル(そうあって欲しいです~)に
なっています。

続いて、門柱の脇に残る歩哨↓
P1060770.jpg

歩哨はコンクリート製で、両方の側面には
四角い穴が開けられています。

現在は、公園の入口に使われている
門柱と同様に保存されています。


公園の中に少し入っていくと、関連していたと
思われる小さな建物が見えてきますよ★↓
P1060773.jpg

建物はコンクリート製の平屋構造で、
鉄製扉が比較的良好な状態で残っていますが、
施錠されているため内部へは入れません。

具体的な使途は不明なのですが、他地域の
連隊遺構で、銃を手入れするために使われた
脂油の貯蔵施設(例えば佐倉とか)に形状が
似ており、この建物も脂油庫として
機能していたかもしれませんねっ★


公園内を進んでいくと、地下施設跡と思われる
遺構が残っております↓
P1060811.jpg

この構造物の詳細は不明ですが、フランス積みと
呼ばれる明治期に少しだけみられた煉瓦積み技法が
用いられていることから、当時の遺構である
可能性が高いです。また下部が土に埋もれていますが
迫持部分や楔石の一部が見えていることから、
アーチ構造を呈す地下施設であると推測します。

現在は放置されていますが、公園内なので
このまま残るものと思われます。

また、地下施設周辺には当時のものと思われる
灯篭も残っておりましたっ★


公園内をさらに進んでいくと、当時の土留擁壁と
思われる構造物が数箇所ありました↓
P1060792.jpg

詳細は判っていませんが、コンクリートの質を見る
限りでは、かなり古い時期のものなので、当時の遺構と
断定しました。また構造から支え壁式であることが
判りますっ。

現在は放置されていますが、公園内なので
このまま残るものと思われます。


公園内を吉田城方面に向かっていくと
門柱が残存しております↓
P1060797.jpg

この門柱の詳細は判りませんが、敷地内に
位置していることから、将校集会所や酒保などの
付属施設に対する通用門の 1つではないかと
推測しています。


当時の焼却炉といわれている構造物も
見ることが出来ますっ↓
P1060783.jpg

古い煉瓦で構築されており、イギリス積み技法が
用いられておりますっ。


公園を出て、豊橋市役所の西側をはしる
国道1号沿いには、西門が残っています↓
P1060780.jpg


門柱は煉瓦で造られており、
扉の一部分が付いた状態で残っています。

現在は、看板が立てられて保存されており
看板の記載内容から、現在の場所へ移転して
保存されたものであることが判ります。


「軍報」は以上となりますっ。
ご閲覧、ありがとうございますっ★

【収録遺構】
 陸軍第三師団歩兵第十八連隊
  建物 1棟
  門柱 3箇所
  歩哨 1箇所
  地下施設 1箇所
  その他 4箇所

【探訪情報】
 2013.09.20 第1回探訪
 歩数(指数) 7,012歩(118)

詳細は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますっ★
是非、ご期待いただければ
幸いでございますっ!


ホームページですが、少しだけ
別案件のリリースが完了しております。

 埼玉県・・・吉見町・ふじみ野市(全12遺構)
 愛知県・・・名古屋市(全49遺構)

是非、こちらからアクセスをお願い申し上げますっ↓
 祐実総軍 ― 戦争遺跡データベース


今日は遠征疲れのため、これにて睡眠いたしますっ!
おやすみなさいませっZzz
←応援してくださいっ♪
皆様、本日もご精勤お疲れ様でしたっ!
あと1日で週末ですねっ★

もうすぐ大型連休に突入しますので
体調管理は万全にしておきたいですねっ★

今回も時間が捻出出来ず、簡単な内容と
なってしまうのですが、美恵軍團軍報の第2弾として
愛知県豊田市におかれた
霞ヶ浦海軍航空隊名古屋分遣隊の
遺構紹介をさせてくださいませっ。


名古屋分遣隊は、航空機の操縦・整備・
航空戦術などの教育を行うことを目的として
1941年(昭和16) に霞ヶ浦海軍航空隊の
分遣隊として開設され予科練の教育を
担当しました。

翌年の1942年(昭和17)には、名古屋海軍航空隊に
昇格し、艦上爆撃機に対する搭乗員養成所として
機能しましたが太平洋戦争での戦況が逼迫すると
特攻の訓練が行われるようになり、1945年(昭和20)の
初頭に神風特別攻撃隊が編成され菊水作戦に参加し
3度にわたってアメリカ軍の艦船に突入し約60名の
勇敢なる隊員が散華しております。

現在、跡地は豊田浄水場や愛知少年院などに
変遷していますが、当時の遺構が残っています。


まずは門柱です↓
P1130889.jpg

残念ながら片方しか残っていませんが
意図的かつ大事に保存されている印象を受けました!


続いて、通信所および司令部とされる地下施設↓
P1130876.jpg

内部はコンクリートが捲かれており
ケーブル跡や通風口などがきれいに残っています★
あまり知られていないのか、荒らされてもいません。


地下施設周辺には建物基礎がいくつかあります↓
P1130881.jpg


浄水場付近にも当時の遺構と思われる残骸があります↓
P1130887.jpg


消火栓もあります↓
P1130927.jpg


このほか、愛知少年院内にも当時の水槽と思われる
遺構がありましたが、ここでは掲載をしないでおきます。


【収録遺構】
 霞ヶ浦海軍航空隊名古屋分遣隊
 (名古屋海軍航空隊)
   門柱 1箇所
  建物基礎 2つ
  地下施設 2箇所
  その他 4つ

【探訪情報】
 2012.02.26 第1回探訪
 2015.04.11 第2回探訪
 歩数(指数) 12,936歩(148)

詳細は、後ほどホームページ内でご紹介させていただきますっ★
是非、ご期待いただければ幸いでございますっ!


今週末も遠征しますっ!
それでは、またお会いしましょうっ★
←応援してくださいっ♪
皆様、本日もお仕事・ご講義お疲れ様でございましたっ!
雨風が強くて大変な1日でしたね・・・

さて、今回から5回にわたって
美恵軍管区(愛知県・岐阜県・長野県・三重県・
静岡県・山梨県)のうち、愛知県にしぼって
戦争遺跡のご紹介をさせていただきたいと思いますっ★

記念すべき第1号は・・・
すみません・・・忙しくしてしまっているため
遺構を1つしか見つけられなかった案件です(涙)

今回は、愛知県尾張旭市と名古屋市守山区に
またがっておかれていた
陸軍第三師団本地原演習場のご紹介です(涙)


本地原演習場は、第三師団の兵科演習場として
1911年(明治44)に設置されました。

ここでは、砲兵と歩兵を中心とする演習が行われましたが
昭和時代に入ると岐阜陸軍飛行学校の文教所がおかれ、
滑走路や建物などが新設されました。

終戦後、敷地は食糧を増産するために開墾され
現在は名古屋近郊のベッドタウンとして宅地化しており
面影が全くありませんが、本地ヶ原神社の入口付近に
移設されたものと思われる軍用地境界標が
1つだけ残存しています。

3度目の正直で記録出来た軍用地境界標↓
軍用地境界標

【収録遺構】
 陸軍第三師団本地原演習場
  軍用地境界標 1本

【探訪情報】
 2012.02.26 第1回探訪(敗走)
 2013.09.23 第2回探訪(敗走)
 2015.04.10 第3回探訪
 歩数(指数) 56,291歩(488)


「祐美総軍―戦争遺跡データベース」についても
少しだけですが更新しておりますっ★
是非、アクセスをお願い申し上げます↓
 祐実総軍 ― 戦争遺跡データベース


それでは、おやすみなさいませっZzz
皆様、日々のお勤めお疲れ様でございますっ★
あと1日頑張れば週末ですねっ!

さてさて、祐実軍團「軍報」の第5弾は
「数字で見る戦争遺跡」をテーマに
祐実軍管区(東京都・神奈川県・埼玉県)で
内部調査がかなった地下壕群の
坑道延長ランキングを掲載させて
いただきたいと思いますっ★


第10位 高座海軍工廠芹沢地下軍需工場↓
芹沢地下軍需工場

神奈川県座間市に掘削された
高座海軍工廠の地下工場で
合計1395.5mの坑道延長を
測りましたっ★


第9位 横須賀海軍工廠造兵部田浦地下軍需工場↓
田浦地下軍需工場

神奈川県横須賀市に掘削された
横須賀海軍工廠造兵部の地下工場で、
合計2056.4mの坑道延長を測っておりますっ★


第8位 横須賀海軍航空技術廠貝山地下壕↓
貝山地下壕

神奈川県横須賀市に掘削された
横須賀海軍航空技術廠の地下工場・
倉庫・居住区で、合計2077.7m坑道延長を
測っています。(2層部分は除いています)


第7位 横須賀海軍工廠造兵部船越地下軍需工場↓
船越地下軍需工場

神奈川県横須賀市に掘削された
横須賀海軍工廠造兵部の地下工場で、
合計2147mの坑道延長を測りましたっ★


第6位 横須賀海軍軍需部比与宇地下壕↓
比予宇地下壕

神奈川県横須賀市のオンパレードですが
横須賀海軍軍需部の地下倉庫で
合計2326.8mの坑道延長を測っておりますっ!


第5位 中島飛行機大宮製作所吉松地下軍需工場↓
吉松地下軍需工場

先日、ご紹介させていただきました
中島飛行機大宮製作所の地下工場で、
合計2618mの坑道延長となっております。


第4位 横須賀海軍工廠造兵部沼間地下軍需工場↓
沼間地下軍需工場

神奈川県逗子市に掘削された
横須賀海軍工廠造兵部の地下工場で、
合計2665.8mの坑道延長を計測しましたっ!


第3位 横須賀海軍航空隊夏島地下壕↓
夏島地下壕

神奈川県横須賀市に掘削された
横須賀海軍航空隊の格納施設・居住区で、
合計3252.3mの坑道延長を計測しています。


第2位 横須賀海軍航空技術廠浦郷地下軍需工場↓
浦郷地下軍需工場

神奈川県横須賀市に掘削された
横須賀海軍航空技術廠の地下工場で、
合計5108.5mの坑道延長を計測しました。


第1位は・・・・・
中島飛行機武蔵製作所浅川地下軍需工場↓
浅川地下軍需工場

東京都八王子市に掘削された
中島飛行機武蔵製作所の地下工場で、
合計5919.5mの坑道延長となっておりますっ★


これらは、計測出来た坑道の延長だけで
ランク付けをしているので、封鎖されていたり
消失してしまった坑道を含めると
順位が前後してしまうので、ランキング自体は
意味をなさないかもしれませんが、
ご参考までっ!

また、これらの内部図も時間限定で
ホームページにご紹介していく予定ですので、
お楽しみにっ♪

次回から5回分は美恵軍團の軍報を
ご紹介させていただきますっ★
それでは、おやすみなさいませっZzz

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皆様、本日もお仕事・講義・
お疲れ様でしたっ!

週始めから悪天候・低温が
続いておりますが
自分自身も含め、体調管理には
気をつけたいですねっ!

さてさて、祐実軍團「軍報」の第4弾は
埼玉県比企郡吉見町に掘削された
中島飛行機大宮製作所の地下軍需工場を
ご紹介させてくださいっ★

中島飛行機は、1917年(大正 6)に
創設された民間の航空機製作会社です。
特筆に値する製作戦闘機に
「隼」や「疾風」などがあり、
戦前の日本を代表する
陸軍・海軍御用達の
戦闘機製造会社として、
「零戦」などの設計で有名な
三菱重工業と双璧をなします。

昭和に入ると、近代戦の主力が
航空機となり、戦闘機の需要が
急激に伸び、群馬県の太田市に
かかえていた工場だけでは
生産が間に合わず、1943年(昭和18)に
海軍専用の戦闘機エンジン工場として、
現在のさいたま市に大宮製作所を
開設しました。

翌年の1944年(昭和19)11月になると、
戦闘機の製作工場で武蔵野市に
おかれていた中島飛行機武蔵製作所が
本土初の空襲を受けたことにより、
大宮製作所の生産能力を
維持させるための疎開先に
吉見町と東松山市が選ばれ、
吉見町に関しては岩粉山・城山・百穴の
各地区に地下工場が建設されました。

これらの地下工場の総延長は
10kmともいわれており、
一部は工作機械も搬入されて
実際に操業したようですが、
具体的な生産実績を出せずに
終戦を迎えました。

現在、これらの大半が放置された
状態ですが、百穴地区に掘削された
地下工場の一部は整備されており
一般公開されています。

吉見百穴

三等兵が初めて訪れたのは1998年。
今じゃ廃墟界のカリスマともいえる
黒魔先生と地下工場系で
ブイブイやっていた時代ですっ
あの頃はみんな若かった(笑)

まずは有名な百穴地区の地下工場内部↓
百穴地区

吉見百穴に隣接する形で掘削されており
入場料を払えば一般公開されている部分を
見学することが可能です。

写真は非公開地区のものですが、
特別に入ることが出来ましたっ!
(そういうことにしておいてくださいませ)

内部は、工作機械の台座や電線を
引き込んだ跡・水槽・排水溝などが
残っています。


続いて、城山地区の地下工場内部↓
城山地区

写真でお判りいただけるように、
ほぼ全域で深く水没しているような
状況です・・・
(長靴程度では無理です)

水深がありすぎて、遺構を確認することは
出来ませんでしたが、一部の坑道は
二段掘り工法が用いられていました。

また、岩窟ホテル奥に掘削されており、
中で繋がっていますっ。

ちなみに、岩窟ホテルの方が
地下工場よりも早い時期に
落成しているので、地下工場の建設により
破壊されてしまっていることになります・・・

岩窟ホテル前に店を構える「岩窟売店」↓
岩窟売店

ここのご主人のご先祖様がツルハシ1つで
岩窟ホテルを建設されたそうですっ。
初訪時、ここに寄らせていただいて
地下工場や岩窟ホテルのお話をたくさん
聞かせていただき、腰まである長靴に
履き替えて内部も見学させて
いただきましたっ!

現在は岩窟ホテル・地下工場ともども
柵で封鎖されています↓
城山地区入口


続いて、岩粉山地区の地下工場内部↓
岩粉山地区

こちらも大半が水没している状況です・・・
吉見温泉の背面に掘削されていますっ!

この他、クレー射撃場の背面にも
地下工場が掘削されていますが、
入口が射撃場の敷地内に位置しており、
訪問時に思いっきり試合が
開催されていたため、内部見学が叶わず
現在にいたっております・・・


【収録遺構】
 中島飛行機大宮製作所
 吉松下軍需工場
  地下壕 3箇所

【探訪情報】
 1998.08.14 第1回探訪
 2007.03.04 第2回探訪
 2008.01.12 第3回探訪
 歩数(指数) 約9,000歩(240)


詳細は、ホームページ内で
ご紹介させていただいております↓
 中島飛行機大宮製作所
 吉松地下軍需工場



次回は、祐実軍團管轄(東京都・
神奈川県・埼玉県)の地下壕延長
ベスト10をご紹介させて
いただきたいと思いますっ!
それでは、また3日後に
お会いいたしましょうっ★

ご笑覧、ありがとうございました m(_ _)m

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皆様、週末をいかがお過ごしでしょうか。
最近、土・日のどちらかが雨なので
お出かけしづらいですね(涙)

さて、祐実軍團「軍報」の
第3弾といたしまして
今回は神奈川県相模原市に
おかれていた陸軍本科士官学校の
演習場のご紹介をさせてください。


陸軍本科士官学校は、少尉以上の
階級を対象に養成を行う教育機関で、
当初は東京の市ヶ谷におかれていた
士官学校が、生徒の増加に伴って
敷地が手狭になってしまい、
1936年(昭和11)に、このうちの本科を
座間へ移設拡張させることで
問題を解決させました。

陸軍本科士官学校演習場は、
1936年(昭和11)に市ヶ谷から
本科士官学校の移転に伴って校舎に
隣接する形で設置され、
その敷地規模は現在の
麻溝台・相模台・磯野・新磯野の
全域にわたる広大なものでした。

ここでは「砲」「工」「歩」「騎」「戦車」の
兵科 (ちなみに、これら各兵科の総称は
「地上兵科」といいます★) 演習が
行われました。

現在、跡地は米軍座間キャンプや
相模原公園・女子美術大学などと
なっていますが、麻溝台の南側を
中心に軍用地境界標が残存しています。

2007年から2009年までの2年間でしたが
三等兵は相模原市民でもありました(笑)
このため、相模原市と隣接する座間市の
軍事施設の敷地は(外枠ですが)
歩きたおしていますが、演習場の遺構は
軍用地境界標だけのようです。

相武台地区に残る軍用地境界標(抜粋)↓
相武台の軍用地境界標

磯部地区に残る軍用地境界標(抜粋)↓
磯部の軍用地境界標

新戸地区に残る軍用地境界標(抜粋)↓
新戸の軍用地境界標

麻溝台地区に残る軍用地境界標(抜粋)↓
麻溝台の軍用地境界標

本科士官学校演習場の軍用地境界標群の
中でユニークな標柱はこれですっ↓
sagamihara_shikanenshu_7.jpg

これも麻溝台に残存している
1本なのですが、特定の施設名を
刻んでいる軍用地境界標は
珍しいですよっ(「陸士」は士官学校の略称)

是非、探訪をお勧めいたしますっ★

【収録遺構】
 陸軍本科士官学校演習場
  軍用地境界標 8本

【探訪情報】
 探訪回数  10回

 歩数(指数) 136,974歩(999)


詳細は、ホームページ内で
ご紹介させていただいております↓
 陸軍本科士官学校演習場


ただいま、名古屋に遠征しているので
簡単なご紹介で申し訳ございません。


それでは、またお会いいたしましょうっ♪
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皆様、日々のご精勤、
お疲れ様でございますm(_ _)m

祐実軍團「軍報」の第2弾として
今回は神奈川県小田原市に
おかれていた傷兵院箱根療養所の
ご紹介をさせてください。


傷兵院は、戦争などにより負傷したり、
病気にかかって復帰出来なくなった
陸軍・海軍の軍人さんに対し、十分な
恩給を支給する一環として、
その処遇を保護する目的で
1906年(明治39)に前身の廃兵院が
東京の巣鴨におかれたことが
はじまりで、その後の法律の改正に伴って
「傷兵院」に改称され、施設を拡大するため
1936年(昭和11)に小田原へと施設を移し、
終戦まで運営されました。

戦後は、国立箱根病院が引き継ぐ形で
傷兵院は廃止され現在にいたっていますが、
病院内に当時の遺構がいくつか
現存しています。



三等兵が訪れたのは2006年の10月。
調査の狼煙を上げると必ずといってよいほど
参加を表明してくれる
菊水先生(今でもそうです)と
地下壕への愛着・執着が半端ではない
ベテラン猛者の誉先生と土龍先生の4名での
調査となりました。


傷兵院の本館として使われた建物↓
本館

木造の 2階建て構造となっており、
屋根部分に小さな塔を持つ
ゴシック様式の要素を含んでいます。
内部は、壁に張られたクロスや
照明器具・ドア部分の金具など、
当時の輸入品が残っているようですが、
非公開が原則ということで
見学は出来ないようです。
また、 2階部分の一室には
当時の貴重な資料が
残っているとのことです★


講堂として使われた建物↓
講堂

こちらは、木造の平屋構造ですが、
本館の建物に類似した造りと
なっています。

講堂内では、たびたび入院者への
慰問の催しを開いたり、
映写機を使って映画を上映したり
していたそうです。

こちらも、残念ながら本館と同様に
建物内は非公開が原則ということですが
日露戦争時の第三軍司令官を務めた
乃木希典大将が揮毫した
「上薬娯神」が現在も内部に
掲げられているそうですっ★


院内に残る御影奉安所↓
奉安殿

一般には「奉安殿(ほうあんでん)」と
呼ばれていた施設で、天皇・皇后の
写真を安置し、拝礼するために
設置されました。


現在は封鎖されている
可能性がありますが、
院内裏手の山には避難用の
防空壕も掘削されています↓
防空壕

内部は基本的に素掘り構造ですが、
入口部分より数mの区間だけは
コンクリートが捲かれ補強されています。
坑道は、おおむねS字型で
岐路を持たず、部屋のような空間が
3つあり、電線を引き込んでいた跡や
温泉を引き込んでいたと思われる
鉄管が残っており、
総延長は67mを計測しましたっ。


詳細は不明ですが、関連遺構と思われる構造物↓
関連遺構

高台に位置しているので
防御営造物の匂いもしますが、
色々な意味で疑問があります・・・

小田原 047


【収録遺構】
 傷兵院箱根療養所
  建物 3棟
  地下壕 1箇所

【探訪情報】
 2006.10.08 第1回探訪

 歩数(指数) 約2,000歩(100)


詳細は、ホームページ内で
ご紹介させていただいております↓
 傷兵院箱根療養所


ここを後にし、次は兵庫県姫路市で
編成された陸軍第八十四師団が
戦争末期の本土決戦作戦を
遂行するために構築した
抵抗拠点陣地をリサーチしようと
しましたが、藪と暑さで
ノックアウトしました・・・

小田原市に構築された陣地について
詳細や場所をご存知の方が
おられましたら、是非教えて
いただきたいですっ!

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皆様、週末をいかがお過ごしでしょうか。
明日からまたお仕事・講義が
始まりますね・・・

さて、4月に入り新しい年度が
スタートいたしました。
個人的に、「戦後70年度」というものを
提唱し、ホームページ・ブログ共に
さらなる拡充を図っていこうと
考えておりますっ。。。

今回から、ブログ拡充の一環として、
甚だ簡単ではございますが
「軍報」と称する遺構紹介を
掲載させていただきますので、
ご笑覧くださいませ。

また、遺構の情報やご感想なども
書き込んでいただけたら幸いですっ★


今回は、横浜市栄区におかれていた
大船第一海軍燃料廠のご紹介です。

大船第一海軍燃料廠は、航空燃料や
潤滑油など石油に関係する
製品の研究や実験を行うことを
目的として1938年(昭和13)に開設され、
現在の本郷台を中心に施設が
おかれていました。

本郷台が燃料廠の建設地に
選ばれた理由には、海軍の重要施設が
おかれていた横須賀に近くて
大船から施設までの軍用線を
敷設することで、横須賀線を使用した
輸送ネットワークが簡単に
確立出来ることが挙がりました。

設立当初は、艦船や航空機に
使用する燃料類の基礎研究や、
松根油などを使用した代替燃料の
試行を繰り返して量産に漕ぎつける
研究などが行われてきましたが、
陸軍・海軍・三菱合同で開発した
ロケット戦闘機「秋水」が完成すると、
これに使用される特殊燃料の研究や
燃焼試験も行われるようになり、
終戦まで実験施設として機能しました。

終戦後、敷地のほとんどを
アメリカ軍が接収し、しばらくの間は
物資倉庫として使用しましたが、
その後に返還されて公団住宅や
学校・行政の施設が建てられた時に
整地されたため、面影が
無くなってしまいましたが、
敷地北側にあたる小菅ヶ谷 2丁目付近に
遺構が少し残っています。

hongodai_10

三等兵が初めて訪れたのは
2005年12月。

戦争遺跡を本気で調べていこうと
決意させた「師」でもある
slycrow先生のご案内に
よるものでしたっ★

その時は、本郷台の駅前に
コンクリート製の地下壕の入口が
残っておりました↓
hongodai_5

現在は駅前にそびえるマンションに
なっている場所です・・・


本郷台駅北東側の畑地と
住宅地周辺には軍用地境界標が
数本残っています(抜粋)↓
hongodai_6

また、横浜006様のページを拝見して
小菅ヶ谷石神公園にも軍用地境界標が
2本残っていることを知り
先日撮影してきました(抜粋)↓
hongodai_1

また、この周辺には境界塀の
支柱も残っていましたっ★


この他、本郷台駅の北西にあたる
信光社とその周辺にも
遺構が残っています。

当時の通用門↓
hongodai_2

信光社内に残る当時のものと
思われる遺構↓
hongodai_3

周辺には地下壕も残っています↓
hongodai_4

住宅地のすぐ前に位置しているので
今回は敢えて入りませんでしたが
いつか内部調査・図面作成を
させていただきますねっ★



【収録遺構】
 大船第一海軍燃料廠
  門柱 1箇所
  軍用地境界塀 4箇所
  軍用地境界標 4本
  建物 1棟(推測)
  地下壕 2箇所
  その他 1つ

【探訪情報】
 2005.12.05 第1回探訪
 2006.10.21 第2回探訪
 2015.04.04 第3回探訪
 歩数(指数) 21,409歩(466)


詳細は、ホームページ内で
ご紹介させていただいております↓
 大船第一海軍燃料廠

※ご注意
 建設当初の設置条件や、
 便宜上などの理由により
 呼称上、頭に「大船」が
 付いていますが、その実体は
 横浜市栄区(本郷台)にあり、
 大船(鎌倉市)に、燃料廠の
 施設は配置されていないので、
 探訪の際はくれぐれも
 注意してくださいねっ★


それでは、おやすみなさいっZzz
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