2015年07月 - 戦争遺跡調査研究軍 祐実総軍

【阪奈軍團】(12)陸軍第十一飛行師団藤井寺飛行場

皆様、3連休をいかがお過ごしですか?
三等兵は早くも「仕事行きたくない病」を
発症しておりますが、まだ1日あります!
思う存分、楽しみましょうっ★


さてさて、関東に住んでいる人間が
関西の遺構紹介ばかりしていて
「引っ越した方がいいのでは?」と
言われそうですが、今回も
前回に引き続き、阪奈軍團「軍報」の
第12弾として、大阪府藤井寺市に
おかれた陸軍第十一飛行師団の
藤井寺飛行場をご紹介させてください。

なお、今回のご紹介にあたりまして
盡忠報國様の大日本者神國也
参考にさせていただいております。
ちなみに、盡忠報國様のブログは
関西地方では「最強」でしょうねっ★
ここまで調べておられる方も
なかなか世にはいないものですっ。
当方は面識がございませんが、
関西遠征の際は、是非手を組ませて
いただきたいですよっ♪


藤井寺飛行場は、
陸軍第十一飛行師団の司令部が
おかれた大正飛行場に対する
予備滑走路として太平洋戦争の
末期に設置されました。

ここには、南北に延びる滑走路が
2本おかれたほか、飛行機を
秘匿するための掩体なども
構築されています。

現在は敷地の殆どが住宅地に
変遷し、滑走路は藤井寺市を
南北に貫く府道に活用されており
面影が全くないですが、
飛行機などの秘匿場所とされた
古市古墳群周辺に当時の遺構が
少しだけ残っています。


大鳥山古墳にやってまいりました↓



大鳥山古墳は、
近畿日本鉄道の南大阪線の
土師ノ里(はじのさと)駅から
歩いて15分ほどの場所ですっ!


古墳の外周に沿って、飛行機掩体が
3箇所構築されているようです。

まずは1つ目です↓


掩体はU字に近い馬蹄形に
土を掘っただけの「無蓋型」に
分類されます。

飛行機掩体には「有蓋型」と
「無蓋型」の2種類に分類され
前者は天井に土などが被さって
いるもの(=地下構造物)で
後者は露天で林などの遮蔽物で
天井部分を隠蔽(=構造物)する
ものとなりますっ。


2つ目の飛行機掩体です↓


これらは、古墳内に
残存していることもあり、
破壊されてしまう心配は
なさそうですが、保存対策は
講じられていないので、
風化によって原形が判らなく
なりつつありますっ▲


3つ目の飛行機掩体です↓



古墳の山頂にも、
円形の遺構が残っています(抜粋)↓


この遺構の詳細は不明ですが、
円形に窪んでおり、山頂付近に
位置していることなどから、
ここに機銃などの防衛施設が
おかれていたと推測しており、
特に、これらは機銃の
設置痕である可能性が高そうです。

当時、この周辺に防衛部隊が
展開しているか、資料等で
確認していますが不明のままです。
とりあえず、藤井寺飛行場の
遺構として掲載させてくださいませ。
(知っている方、ご教示くださいっ)


この北側に展開する古墳緑地にも
飛行機掩体と思われる窪みが
残っています↓


正直、こちらは自信ないです・・・
違っていたらゴメンナサイっm(_ _)m


【収録遺構】
 陸軍第十一飛行師団藤井寺飛行場
   飛行機掩体 4箇所
   砲座 4箇所

【探訪情報】
 2015.05.22  第1回探訪
 歩数(指数) 6,387歩(100)


この連休中、若干ですが
ホームページの更新が
進んでおりますっ★

お時間がある時に、是非
ご覧くださいませ m(_ _)m

今回の更新は以下です↓
 ・大阪府
  八尾市(9)
  藤井寺市(8)
 ・群馬県
  太田市(5)
 ・東京都
  立川市(6)

是非、こちらからアクセスをお願い申し上げますっ↓
 祐実総軍 ― 戦争遺跡データベース


それでは、よい連休をっ★
←応援してくださいっ♪

【阪奈軍團】(11)海軍由良水雷隊深山基地

皆様、3連休をいかがお過ごしでしょうか?
三等兵は遠征を企んでいたのですが
台風一過ということもあり、
今日は中止にしましたっ・・・▲

アマゾンへ頼んだ「本土決戦」関連の
書物3冊を熟読して過ごそうかと。。。

そのかわり、8月の初めに
5日間かけ、じっくりと腰を据えて
探訪することにしましたのですっ。


さてさて、今回の阪奈軍團「軍報」は、
前回の予告通り、和歌山県和歌山市に
おかれた海軍由良水雷隊の
深山基地をご紹介させてくださいませ。
「ご紹介」だなんて、たいそうな言葉を
使っておりますが、資料がそろわず
文献調査が出来ておりませんです。。。
申し訳ありませんっ m(_ _)m



男良谷砲台の北側に隣接して、
海軍由良水雷隊の基地がおかれていました。
資料などによると、部隊がおかれていたことは
間違いないと思われますが、具体的な年代や
活動は現時点で把握しきれていません▲
(詳細を知っている方は、是非ご教示ください)

周辺に残っている遺構の造りや構造などから、
施設が設置されたのは明治後期から
大正時代であると推測しています。

現在、敷地は放置状態となっており、
自壊しているものが多いものの、
いくつかの遺構が残存しています。


和歌山県和歌山市の深山地区にある
国民休暇村から海岸方向へ向かう
遊歩道(?)を進んでいきますっ↓



遊歩道沿いに軍用地境界標が
ありますよっ↓



少し進むと、成形された平地があり
建物の設置痕が残っています↓



このまま海岸方向へ進むと
陸軍由良要塞の男良谷砲台の
遺構群が見えてきますが
反対側の山林に入っていくと
魚雷を射堡へ運搬するための
トンネルがあらわれますよっ↓



内部は煉瓦製で、コンクリート床の
レール設置痕などを見ることが出来ます↓


残念ながら、現在は途中で
崩落していますが、右へカーブしながら
海岸へ貫通していたものと思われます。


トンネル脇の平地を進んでいくと
当時の構造物が残っています↓


これが何だったのかは
全然把握出来ませんでした・・・


男良谷砲台の遺構を横目に
海岸に出てみましょう↓



海岸周辺は、大規模な山崩れが
おこっているため、先ほどの
魚雷運搬トンネルの出口部分も
埋もれてしまっているようです。


海方向を見ると、魚雷射堡の
一部と思われる突堤部分が
残っています↓


現在は海釣りスポットに
なっているようですね~


【収録遺構】
 海軍由良水雷隊深山基地
   建物基礎 1箇所
   トンネル 1箇所
   軍用地境界標 1本
   その他 2箇所

【探訪情報】
 2008.02.23  第1回探訪
 歩数(指数) 約3,000歩(100)


詳細は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★


それでは、よい連休をっ!
←応援してくださいっ♪

【阪奈軍團】(10)陸軍由良要塞男良谷砲台

皆様、週の後半戦をいかがお過ごしですか?
今日の関東地方は、大雨が降ったかと思えば
晴れ間ものぞいちゃったりして、変な天気と
あいなりましたね~。


今回から2回にわたって、当方に関係する
サイト様のアシストをさせていただきますね。
(余計なことしてたらゴメンナサイ・・・)


本日は、阪奈軍團「軍報」の第10弾として
和歌山県和歌山市におかれた
陸軍由良要塞の男良谷砲台を
ご紹介させていただきますっ♪


男良谷砲台は、深山地区に
配備されていた由良要塞の1つで、
1903年(明治36)に完成し、速射カノン砲が
4門据え付けられていました。

速射カノン砲は、カノン砲や榴弾砲より
水平の弾道を描くため、主に敵艦の
側面部を破壊する要撃砲台として
標高の低い位置に据え付けられ
カノン砲や榴弾砲の「高砲台」に対し
「低砲台」や「平射砲台」として
区別されることがあります。

また、「速射」と冠されていても
現代のような速さで撃てるものではなく、
1分間に2・3発が限度というものでしたが、
当時としては速射に値するものでした。

現在、砲台の跡地は国民休暇村の
遊歩道(?)となっていますが、ほぼ原形を
留めています。


和歌山県和歌山市の深山地区にある
国民休暇村にやってまいりましたっ↓


ここから、海岸へ通じる遊歩道(?)を
下っていきますっ。

ハアハア、せっかく山を上ってきたのに
ここに来て半分以上下るとは・・・


第一砲座でございます↓


砲座は石・コンクリート製で、現在は草木が
生い茂っており、視界不良です・・・


砲側掩蔽部でございます↓


掩蔽部内部の特徴として
最奥部分の壁に丸みがあり
鳥瞰で表現すると、
「П」が標準的な形状ですが
「∩」の形になっています。


第二砲座でございます↓


第一砲座と同様に視界不良です▲


砲側掩蔽部でございます↓


入口の形状・内部は、最初で
ご紹介した掩蔽部と同様ですが、
砲座に繋がる階段部分が
左右対称になってのが
唯一の変化でしょうかね。。。


砲座から少し離れた場所に
観測所が設けられていますが
現在は海岸へ繋がる遊歩道の
建設によって破壊されています↓



砲座・観測所の背面に位置する
平地周辺に当時の建物基礎が
いくつか残っています(抜粋)↓



炊事場とおぼしき遺構も残っています↓



また、この周辺には
荒天時に、砲台周辺に溜まった雨水を
排水するための暗渠やトンネルが
海岸方向に向かって構築されています↓



海岸側にも2つほど見ることが出来ますっ。
1つ目の排水路ですっ↓


2つ目の排水路ですっ↓



胸墻(砲座前面に設けられた土塁)部分は
大きく崩落しているため、原形を
とどめていない状態ですが
写真のような構造物も海側から
見ることが出来ますっ↓



【収録遺構】
 陸軍由良要塞男良谷砲台
 (陸軍由良要塞深山第三砲台)
   砲座 2箇所
   観測所 1箇所
   地下施設 2箇所
   建物基礎 2箇所
   トンネル 1箇所
   その他 3箇所


【探訪情報】
 2008.02.23  第1回探訪
 歩数(指数) 約3,000歩(100)


次回は、この砲台の背面におかれた
海軍由良水雷隊の深山基地の遺構を
ご紹介させていただきますねっ★

それでは、おやすみなさいませっZzz
←応援してくださいっ♪

【祐実軍團】(11)東京第二陸軍造兵廠櫛引製造所

皆様、週初めからお仕事・ご講義、
誠にお疲れ様でございました。

今年は、戦後70年という節目からか
テレビ・書籍・他サイト様などなど、
「戦争遺跡」というものが認知されはじめ
とてもうれしく思う今日この頃でございます。
しかしながら、やはり「負」に偏りがあるのは
否めない雰囲気ですね・・・

現在の「便利」で「技術力」が高い
日本という国を形成している「源」でも
あるのに・・・と思うのは私だけでしょうか?

さてさて、祐実軍團「軍報」の第11弾は
埼玉県深谷市におかれていた
東京第二陸軍造兵廠櫛引製造所の
ご紹介をさせていただきますねっ。


東京第二陸軍造兵廠は、砲弾類に
使用する火薬を製造することを目的に
東京陸軍砲兵工廠の板橋火薬製造所を
前身として、1940年(昭和15)の組織改定で
開設された火薬製造所で、東京の
板橋に本部がおかれていました。

櫛引製造所は、東京第二陸軍造兵廠の
本部がおかれていた板橋製造所の
生産拡大を目的として、1943年(昭和18)に
開設されました。

太平洋戦争の末期は、空襲による
板橋製造所の生産維持をはかるための
疎開先にもなり、大小合わせて350棟に
及ぶ建物があったそうです。

現在、敷地跡地の大半が農地に
転用されており、大半の建物群は
解体されてしまっていますが、
当時の遺構がわずかに残っています。


埼玉県深谷市の農地に来ました↓


高崎線の深谷駅から、
ここまで歩くこと1時間20分。
な、なかなかの距離です・・・

現在も残る建物のほとんどは
農地を所有する地主様の家の
一部となっておりますので
場所は伏せさせていただきますね。


当時の建物の一部です↓



少し離れた場所にも残っています↓



頑丈さゆえか、完全に壊せなかった
建物の基礎部分も残っております↓



井戸なんかも残っています↓



これは、ちょっと微妙ですが
当時の建物としてカウントさせて
くださいっ↓



貯水槽なんかも残っております↓



こちらは建物が完存しており
一番見ごたえがあるかもしれません↓



機械の台座なんかも残っています↓



ここから、1時間半かけて
秩父鉄道の小前田駅に向かって
トボトボ歩く三等兵でした~(汗)


【収録遺構】
 東京第二陸軍造兵廠櫛引製造所
  建物 4棟
  建物基礎 2箇所
  その他 2箇所

【探訪情報】
 2012.06.17  第 1回探訪
 2012.06.23  第 2回探訪

 歩数(指数) 69,029歩(582)


詳細は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★


それでは、また数日後に
お会いしましょうっ♪
←応援してくださいっ♪

【阪奈軍團】(9)大阪陸軍航空廠

皆様、週末をいかがお過ごしでしょうか?
三等兵は、サザエさん病を発症中ですっ!
明日、仕事に行きたくない~ イヤイヤ

ただいま、サッポロ黒ラベルを飲みながら
拙ホームページの「八尾市」を制作中です。
制作ついでに、ここでもご紹介をさせて
いただきたいと思います。

今回の阪奈軍團「軍報」の第9弾は
大阪府八尾市におかれていた
大阪陸軍航空廠をご紹介させてください。


大阪陸軍航空廠は、飛行機の機体や
エンジン・機関砲などの造修を目的として
1940年(昭和15)大正飛行場に
隣接する形で設立されました。

ここでは、弾薬科・機械科・兵器科・
燃料科・運輸科・機材科の各専門部門を
持ち、航空機に関連する兵器の製造や
調整・修理などが行われました。

現在は、敷地の殆どが住宅地と
なっていますが、木本(きのもと)地区の
周辺に当時の遺構が少し残っています。


大阪市営地下鉄谷町線の終着駅である
八尾南駅の北側に格納庫の基礎部分が
残っております↓


格納庫付近には、誘導路の一部が
残っております↓


市立大正北小学校の北に位置する
児童公園には、移設された
通用門の一部が残存しています↓


何だよ、コレ・・・
こんなの、はたして「保存」といって
いいのでしょうかね~

残念すぎますよ、こんなの。。。


門柱脇には、案内板が
立てられています↓


「戦争中の人々のくらしを後世に伝える
 八尾市内の数少ない遺産の一つとして
 貴重です。」

こんな保存の仕方で、後世に
きちんとした形で伝わるとは
到底思えないですが・・・
「何やコレ」で終了ですよっ!

こう思うのは私だけでしょうか・・・


【収録遺構】
 大阪陸軍航空廠
  門柱 1箇所
  建物基礎 1棟
  その他 1箇所

【探訪情報】
 2007.07.09  第1回探訪
 2008.02.26  第2回探訪
 2008.02.29  第3回探訪
 歩数(指数) 約10,000歩(100)


それでは、明日も頑張りましょうっ!

【祐実軍團】(10)横浜海軍航空隊

皆様、土曜日をいかがお過ごしでしょうか。
今日は全国的に真夏日となったようで
暑かったですねっ~(汗)

夏場は、三等兵の天敵である
「虫」と「藪」に阻まれるので
調査に適さない季節なのですが
お酒がおいしく感じるので
嫌いじゃないです、はいっ♪


今回の掲載により、7月4日から
1週間連続で「毎日掲載」となりましたが
こりゃ、大変ですね~(汗)

毎日、ブログ更新している
他のサイト様は凄いですねっ!

三等兵には力不足で
これは出来ないと実感しました(汗)

次回の掲載から、「平均3日毎」を
目標に掲載を継続させていただきますので
これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。


さてさて、祐実軍團「軍報」の第10弾は
神奈川県横浜市におかれていた
横浜海軍航空隊のご紹介を
させていただきますねっ。

横浜海軍航空隊は、飛行艇を専門として
取扱う海軍最初の航空隊として、
首都の防衛を目的に1936年(昭和11)10月に
開設された航空隊です。

ここには、「九七式飛行艇」や世界最高水準の
飛行艇として名高い「二式飛行艇」が配備され
防衛任務にあたっていました。

飛行艇は、胴体下部が船のような構造に
なっており、水に浮揚出来るため、一般的な
飛行機のように、陸上に広大な滑走路を
建設する必要がないため、用地取得の
経済性にメリットがありました。

1941年(昭和16)12月、アジア太平洋戦争が
開戦されると、海軍連合艦隊の
第二十五航空戦隊の隷下となって
転戦しましたが、1942年(昭和17)8月7日、
ガダルカナル島での戦闘において、
アメリカ軍の急襲を受け全員が玉砕し、
壮絶な最期を遂げました。

その後、同年の10月に再建されますが、
1945年(昭和20) 4月の再編成で、
練習航空隊である香川の詫間海軍航空隊に
編入されて終戦を迎えました。

終戦後、横浜海軍航空隊の敷地は
アメリカ軍に接収されましたが、現在は返還され
富岡総合公園や神奈川県警第一機動隊などが
建設されています。また、飛行艇の発着場は
埋め立てられて南部卸売市場となっています。

これらの建設によって整地されていますが、
敷地南側を中心に当時の遺構が
わずかに残っています。


湘南スプリンター電鉄の
スプリンター富岡駅(笑)から
徒歩15分ほどの場所にある
富岡総合公園周辺にやってきました↓


むかし、スプリンター富岡は
急行が停車する駅で、周辺に
「富岡に特急を停めよう」なる
横断幕があったのですが、
今は幕が撤去されたどころか
それまで停車した急行にまで
見捨てられて、普通車しか
停車しない残念無念な状態です。


まずは、正門です↓



続いて、格納庫です↓


この格納庫、とても大きいので
全景を写真に収めることは
非常に難しいです(汗)

裏山に上ってしまえば
撮れそうな感じもしますが・・・


誘導路の跡ですっ↓


ここの探訪は2回しておりますが
全て「雨」ですっ(涙)


コンクリート製の地下施設です↓


これまた、時期が悪かったようで
何を撮っているのか判りませんね(涙)

ホームページに公開するための写真を
関係者の方々にたかりましょうかねっ!
(よろしくお願いいたします)


背面の山にはコンクリートが捲かれた
地下壕が掘削されてます(抜粋)↓


残念ながら、すべての入口が
写真のようにブロックで
ジップロックされているので
内部の状態は判りませんが
かなりの広範囲に入口が
点在していることから、規模は
それなりにあるものと思われますっ。


富岡総合公園の南側には
軍用地境界柵が広範囲に
残存しておりますっ(抜粋)↓



境界柵に沿って、尾根を
進んでいくと、軍用地境界標も
数多く残存しております(抜粋)↓


軍用地境界標にコンクリートが
使われるのは、別に特質な話では
ないのですが、たいていは質が悪く
結構な大きさの石なんかが
混ざっていたりするのですが、
ご覧ください、この質感↓


以下、実際に使用された方々の感想です↓

 ・あっ、ザラザラしてない~(驚)
 ・なめらかだわ~
 ・これだったら、肌にも優しいし・・・

って、化粧品の宣伝かいな~(笑)


【収録遺構】
 横浜海軍航空隊
  建物 1,
  門柱 1,
  地下施設 2,
  地下壕 2,
  軍用地境界標 16,
  その他 2

【探訪情報】
 2005.12.01  第 1回探訪
 2014.03.01  第 2回探訪

 歩数(指数) 約10,000歩(136)


詳細は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★


それでは、よい週末をっ!
←応援してくださいっ♪

【和泉軍團】(6)陸軍飛行第二十八戦隊豊成飛行場

皆様、今週もお仕事・ご講義
お疲れ様でございました。

週末は「晴れ」のようでっ★
早く、梅雨明けして欲しいですねっ!

今日は、色々と準備に追われておりまして
今回も「手抜き」で申し訳ないのですが
和泉軍團「軍報」の第6弾として
遺構が1つしか確認出来なかった
豊成飛行場のご紹介をさせてください。


豊成飛行場は、太平洋戦争の戦局が
劣勢となり、本土空襲に備えて
これを迎撃するための航空基地として
1944年(昭和19)に開設されました。

ここには飛行第二十八戦隊が展開し、
偵察機や戦闘機が配備され、爆撃のために
飛来してきたアメリカ軍の戦闘機を
迎撃しています。

また、終戦間際には、洋上を航行する
軍艦にも体当たり攻撃を行っています。

現在、飛行場跡は武射田工業団地や
警察学校・農地などになり、面影が
ほとんどありませんが、敷地の
東側にあたる農地内に、格納庫の
基礎と思われるコンクリート片が
残っています。


千葉県東金市下武射田の農地に
やってまいりましたっ↓



ここに、格納庫の基礎部分が
現存しているのです↓



違うアングルからもう1枚載せます↓



【収録遺構】
 陸軍飛行第二十八戦隊豊成飛行場
  建物基礎 1箇所

【探訪情報】
 2007.04.29  第1回探訪
 2015.03.08  第2回探訪
 歩数(指数) 約1,000歩(100)


詳細は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★


それでは、また明日っ!
明日は少し真面目にやりますっ▲

【阪奈軍團】(8)陸軍由良要塞城が崎電灯所

皆様、本日もお疲れ様でございました。
関東地方は連日にわたって雨模様で
本当に嫌になりますね~

明日から数日は天気が回復するとの
予報なのですが、どうなのでしょうかね。。

今回は短い内容となってしまいますが
阪奈軍團「軍報」第8弾といたしまして
和歌山県和歌山市におかれた
陸軍由良要塞の城が崎電灯所を
ご紹介させていただきますねっ★


加太砲台群と深山砲台群の中間に
位置している城ヶ崎には、
電灯機関舎(発電施設)をかかえる
電灯所がおかれていました。

電灯所とは、探照灯(サーチライト)を
運用する施設のことで、夜間の砲撃に
必要不可欠となるものでした。
(ちなみに、電灯機関舎を有さない
探照灯の運用施設は「照明所」と
いいますっ★)

戦後、施設跡地に国民休暇村の施設が
建ちつつ、探照灯の格納庫などが
残っていたそうですが、現在は休暇村の
施設が取り壊され、見晴らし台となっており、
面影がありません。見晴らし台の
東側山頂に遺構がわずかに残っています。


南海電車の和歌山市駅に来ました↓


ここからスイッチバックして
加太方面へ向かい終点で降りますっ★

加太駅から岬町方面に行く県道を
30分くらい歩いていくと城が崎に到着です♪

さっそく、県道沿いに防御営造物境界標を
見ることが出来ますよ↓


標柱は花崗岩製で風化が進んでおり、
写真では見づらいのですが、
「陸」の文字が確認出来ましたっ♪


もう一つ、落石防止網の中にあります↓



城が崎の突端部分にある見晴らし台の
背面の山を上がっていくと、電灯所関連の
煉瓦製遺構が残っています↓


残念ながら、ほとんどが埋没している
状況なので、この遺構が何なのかは
判断出来ませんでした(汗)
おそらく、昇降式探照灯格納庫の
一部ではないかと思っていますが・・・


以下、「日本築城史」の抜粋です↓
 深山第 2 砲台の西南方 0.8 キロ、
 深山湾と加太湾を抱く突角が
 城が崎で、ここに城が崎電灯所が
 あった。 90 センチ射光機が
 備えられていた。昇降式
 (空井戸式) で、射光機は常時
 空井戸底の窖室に収容され、
 使用時上昇して、海面を照射する
 固定式探照灯照明座である。
 発電機室は照明座東方300メートルの
 山陰に設けられ、建物は現在も
 残っている。照明座の地には、
 今、国民休暇村城が崎荘が建設され、
 荘のほぼ中央に昇降井があった。
 (現在、城が崎荘は解体済み)


煉瓦遺構から陸側に進んだ崖地にも
防御営造物境界標が残存しています↓



【収録遺構】
 陸軍由良要塞城が崎電灯所
  軍用地境界標 3本
  その他 1箇所

【探訪情報】
 2008.01.15  第1回探訪
 歩数(指数) 10,024歩(100)

詳細は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★

それでは、おやすみなさいませっZzz
←応援してくださいっ♪

【美恵軍團】(7)陸軍第十五師団騎兵第二十六連隊

皆様、本日もお仕事・ご講義、
大変お疲れ様でございました。

関東地方は、ここのところ
雨ばかりで気分が下がりますね~

さてさて、今回は私の「師」でもあり
当サイトの関係者でもある
slycrow先生から豊鉄がらみの
書き込みをいただき、気分をよくしたので
美恵軍團「軍報」第7弾として
愛知県豊橋市におかれた
騎兵第二十六連隊のご紹介を
させてくださいませっ★


騎兵第二十六連隊は、第十五師団の
隷属部隊で、1909年(明治42)に
創設されました。

その後、1925年(大正14)の軍縮で
第十五師団の廃止にともなって
第三師団の隷属に変更され、
1931年(昭和6)に発生した満州事変を
皮切りに出征し、中国戦線の主要作戦に
参加して戦果を挙げました。

昭和に入ると、騎馬に代わる兵器として
戦車や自動車が近代戦の主力となり、
騎兵連隊が機械部隊に移行していく中、
同連隊は終戦を迎える最後まで
騎兵部隊として活躍したそうです。

現在、敷地跡は住宅地や王ヶ崎合同宿舎などに
変遷していますが、王ヶ崎合同宿舎の南側には
当時の門柱や歩哨などが移設保存されており、
見学することが可能です。


豊橋市にやってまいりましたっ↓


豊橋駅から豊橋鉄道渥美線に乗車し
南栄駅で降り、ヤマナカ豊橋フレンテ館を
目指して進んでいきますっ!

南栄駅から歩くこと約10分、
ヤマナカ豊橋フレンテ館の裏手にある
小さな公園に、騎兵第二十六連隊の
遺構が集約保存されています。


まずは正門です↓


門柱は煉瓦で造られており、
ポイント部には花崗岩が使用されており、
門扉を接合した金具も見ることが出来ます。


続いて、歩哨でございます↓


歩哨はコンクリート製で、両方の側面には
四角い穴が開けられています。


このほか、軍用地境界塀の支柱の
頂部に使われたポイント部分が
6つ展示されています↓


よく見ると、側面に塀との接合痕が
残されていますよっ★


この公園から少し離れた
合同宿舎王ヶ崎住宅の敷地内にも
当時の通用門と思われる門柱が
残っています↓


門柱は煉瓦で造られており、
表面部分にはモルタルが施されています。
また、門扉を接合した金具も残っています。


【収録遺構】
 陸軍第十五師団騎兵第二十六連隊
 (陸軍第三師団騎兵第二十六連隊)
  門柱 2箇所
  歩哨 1箇所
  軍用地境界塀 1区画

【探訪情報】
 2013.9.20 第1回探訪
 歩数(指数) 2,009歩(100)

詳細は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★


それでは、週の後半戦も
頑張っていきましょうっ!
←応援してくださいっ♪

【阪奈軍團】(7)大阪陸軍偕行社

皆様、本日もご精勤・ご講義、
大変お疲れ様でございました。

今日は少々「ぼやき」に
お付き合いください m(__)m

今日、昼にやっているフジテレビの
情報番組を食事しながら見たんですけど
一時期、話題にあがった小保方先生が
論文掲載にかかった費用を理研に
返還したんだとか・・・

過去に色々問題を起こしてきた身としては
「いけない」ことは素直に謝らなければ
いけないと考えますが、これを報道した
安藤優子キャスターの言い分が
非常に腹立って仕方なかったですね。

例の「細胞」が発表された時は
「素晴らしい快挙」だとか
言っていたくせに、不正発覚以降は
手を返したように、彼女の全てを
否定するような言い方をする。

そりゃ、ダメなことはいけないけど
彼女の「全て」を否定する言い方は
いけないと思いますよ。
発する言葉は、時には「暴力」に
なることを常に意識して欲しいし
騙されたり、裏切られたら
殺人すら肯定される訳では決して
ないですからね~
(もちろん、情状酌量はありますけどね)

キャスターなる者は、まず模範に
なるべきだと思います。

あくまで、私個人の好き嫌いですが
当人が上昇傾向の時はキャーキャー騒ぎ
それが何かの落ち度でマイナス傾向に落ちると
途端に、あたかも全てを知ったかのように
突き放すようなことを言う奴は
「大嫌い」です。

たいてい、時間が経つと
「そんなこと言ったっけ?」
なーんて、ケロっとしちゃってさ。
言ったことすら忘れてしまう。
こういう奴は、信用度「ゼロ」です。
まったく、アホらしい。

もっとも、安藤キャスターも
「報道の世界」の人間として
不本意な役を自ら買って出ていると
信じていますが、これが本当の
彼女の姿であるならば、即刻
改めたほうがよろしいかと思います。


皆様を複雑な気分にさせてしまう
書き込みをしてしまいました。
申し訳ありません m(_ _)m


改めまして、阪奈軍團「軍報」の
第7弾は、大阪府大阪市におかれた
大阪陸軍偕行社のご紹介を
させてくださいませっ★


「偕行社(かいこうしゃ)」とは、
研修や親睦を目的として設立された
陸軍将校のクラブのことです。

偕行社は、1877年(明治10)に東京で
最初に設置されたのを皮切りにし、続いて
設置されたのがこの大阪陸軍偕行社です。

現在、偕行社の跡地に追手門学院が
建てられていますが、わずかに
当時の遺構が残っており、その中には
追手門学院で現在も活用されているものが
あります。


大阪市中央区大手前1丁目に来ました↓


ここから、偕行社の跡地である
追手門学院を目指して歩きますっ★


追手門学院の校門は
当時の門柱が使われています↓


意匠をこらしたデザインで、
とても素敵ですねっ★


追手門学院の東側の境界部分に
当時の軍用地境界塀が
活用されています↓



塀が折れ曲がる部分には
軍用地境界標も残っています↓



【収録遺構】
 大阪陸軍偕行社
  門柱 1箇所
  軍用地境界塀 1箇所
  軍用地境界標 1本

【探訪情報】
 2007.07.07  第1回探訪
 2007.12.23  第2回探訪
 歩数(指数) 3,022歩(100)

詳細は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★

ホームページですが、京都市内の
制作がようやく終わり、本日付で
リリースしておりますっ♪

お時間がある時にでも、
是非、一度ご覧くださいませっ↓
 祐実総軍 ― 戦争遺跡データベース


それでは、またお会いしましょうっ★