戦争遺跡のご紹介やホームページの制作状況などを綴っていきます♪

総軍BLOGへようこそっ!

♦ プロフィール

祐実総軍三等兵

Author:祐実総軍三等兵
全国に残る戦争遺跡を探訪して
記録することを生き甲斐とする
祐実総軍三等兵でございます★
稚拙な内容ではございますが、
これまで調べてきた戦争遺跡を
ブログ・ホームページで紹介を
させていただいておりますっ♪

よろしくお願いしますm(__)m

♦ 最新記事

♦ カウンター

皆様、8月の最終日を
いかがお過ごしでしょうか?
「夏」が終わりですね・・・
寂しくなりますね(涙)


毎度、横須賀ネタで恐縮ですが
本日は祐実軍團「軍報」の
第23弾といたしまして、
神奈川県横須賀市に設置された
「陸軍」の東京湾要塞地帯標を
簡単にご紹介させてくださいませ。

本当は「海軍」の要塞地帯標も
一緒にご紹介したいのですが
長くなりそうなので、別々の
ご紹介とさせていただきますね m(_ _)m


東京湾要塞は、日本の本土におかれた
12箇所の永久要塞のうちの 1つです。
1895年(明治28)の要塞司令部条例により
永久的な防御工事を施している場所は
「要塞」とされ、海軍の場合砲台や軍港が
「要塞地帯」とされました。また、
これに伴う法律も公布されており、
軍事機密の保持のため、要塞地帯に
指定された区域内での測量や撮影・
スケッチ・土木工事などは、要塞司令部の
許可がないと出来ませんでした。
また、これらの防御営造物より
250間(約455メートル)以内を特に
「要塞地帯第一区」として一般人の立入が
禁止され、衛兵が守備していました。
さらに、その距離に応じ「第二区」・
「第三区(区域)」が設定され、これらを
明確にするため、その境界部には
要塞地帯標が設置されました。

要塞地帯を定義する法律は数度にわたって
改正されましたが、最終的に防御営造物から
1,000メートル以内を第一区とし、
5,000メートル以内を第二区・
15,000メートル以内を第三区(区域)と
当初よりも大幅に拡大されました。

横須賀市については、まさに
東京湾要塞の砲台群が設置された
場所であるために、要塞地帯に定められた
箇所があり、その境界に設置された
要塞地帯標が現在も残っています。


まずは、走水1丁目の防衛大学校内の
要塞地帯標です↓



同じく、走水1丁目の横須賀市水道局の
走水水源地内にある要塞地帯標です↓



大津町の住宅地内に残る
要塞地帯標です↓



桜ヶ丘の住宅地内に残る
要塞地帯標です↓



岩戸の山林内に残る
要塞地帯標です↓



野比の介護施設付近に残る
要塞地帯標です↓



む、む、無念っ!
本当は馬堀町の住宅地内にも
要塞地帯標が残っているのですが
写真を消失してしまいました~(涙)
ちゃんと記載文字の記録は
出来ているのにぃ~
無念、無念でござるっ(恥)

関係者の皆様、ホムペ公開用に
1枚提供してください~(汗)


【収録遺構】
 陸軍東京湾要塞地帯
  横須賀市
   軍用地境界標 7本

【探訪情報】
 2006.04.09  第1回探訪
 2006.06.24  第2回探訪
 2006.07.01  第3回探訪
 2007.01.08  第4回探訪
 2007.10~2007.11のどこか
   第5回探訪(馬堀)
 2014.04.27  第6回探訪

 歩数(指数) 約30,000歩(508)


詳細は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★


それでは、おやすみなさいませっ!
←応援してくださいっ♪
皆様、日曜日をいかがお過ごしでしょうか。
ここのところ、関東地方は雨ばかりで
嫌な感じですよね・・・


さてさて、今回は阪奈軍團「軍報」の
第16弾といたしまして、
和歌山県和歌山市におかれていた
陸軍由良要塞の要塞砲兵第二連隊の
遺構をご紹介させてくださいませ。


要塞砲兵第二連隊は、由良要塞に
それぞれ配置されていた砲兵隊で、
平時は第四師団の隷下・戦時になると
由良要塞司令部の隷下におかれ、
由良・友ヶ島・深山・鳴門(徳島県)の
各地区に1個大隊を割り当てて、
深山には連隊の本部がおかれました。
人員構成は1,500名~2,000名で
あったそうです。

連隊跡地は、国民休暇村運動園地と
なっており、園内の南東側を中心に
当時の遺構がいくつか残っています。


国民休暇村の運動園地にきました↓



将校集会所の建物基礎です↓



将校集会所の背面部分の山に
全面コンクリート製の
地下施設が残っています↓



当時の橋梁です↓



ここからオートキャンプ場方向へ
進んでいくと、当時の遺構とおぼしき
地下施設が残っています↓



兵営を囲むようにして、軍用地境界柵の
支柱が残っています(抜粋)↓



防御営造物境界標も
いくつか残っています(抜粋)↓



この後、園地内のカレー店で
カレーを食して帰りました~


【収録遺構】
 陸軍由良要塞
 要塞砲兵第二連隊

  建物基礎 1箇所
  地下施設 2箇所
  軍用地境界塀 3箇所
  軍用地境界標 3本

【探訪情報】
 2008.01.15 第1回探訪
 2008.02.23 第2回探訪
 2008.03.18 第3回探訪

 歩数(指数) 50,000歩以上(999)


詳細は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★

なお、別案件でホームページを
更新しております↓
 祐実総軍 ― 戦争遺跡データベース


それでは、明日から頑張りましょうっ!
←応援してくださいっ♪
皆様、週末をいかがお過ごしでしょうか。

ここ数日、関東地方は悪天候・低温が
続いておりますが、寒暖差で
風邪などひかないように
注意したいですねっ★


さてさて、本日も祐実軍團「軍報」の
第22弾といたしまして、
神奈川県横須賀市におかれた
要塞砲兵第一連隊の遺構を
ご紹介させてくださいませ。


要塞砲兵第一連隊は、東京湾要塞の
防備を行う砲兵部隊で、1890年(明治23)に
編制され、東京湾要塞司令部に隷属し
のちに起きた日清戦争・日露戦争の
戦備につきました。

1918年(大正 7)に入ると、口径が大きく
威力も大きい重火器を備えた野戦重砲兵が
創設されたことにともない、配下の
各2個大隊をそれぞれ再編制し、
野戦重砲兵第一連隊野戦重砲兵第二連隊
創設され、それぞれ市川と三島へ移転し
残りの兵員をもって横須賀重砲兵連隊へ
組織の名称変更が行われ、引き続き
東京湾要塞の防備任務につきました。

アジア・太平洋戦争末期は、アメリカ軍が
計画した本土上陸作戦に対抗して
日本軍が計画した本土決戦作戦の一環で
第一総軍配下の第十二方面軍の傘下に入った
東京湾兵団の隷下となり、房総半島の君津・
天津小湊以南における沿岸の防備を
担当したところで終戦となりました。

現在、敷地は市立桜小学校・
市立坂本中学校や住宅地などに
変遷していますが、門柱や
軍用地境界標などがわずかに
残存しており、このうち門柱は
横須賀市の市民文化資産となっており、
学校の正門としても活用されています。


品川~横浜~横須賀間の快特運転と
「だぁ~しめますっ」の放送に定評がある
京浜爆走電鉄の汐入駅にきました(笑)↓



京急に対して、こんな表現ばかりしてると
京急信者に殺されそうですが、
かつての私も、相当の信者でありました!
そのへんの信者とは比較出来ないくらいの
「京急教」でした・・・(京急狂が正しいか?)


おっと、脱線しましたが
汐入駅から、兵営がおかれた
坂本町に向かって歩いていきますっ♪


市立桜小学校・市立坂本中学校の
校門は、かつての正門ですっ↓



軍用地境界塀も残っています↓



校内には碑も立てられています↓



敷地の南端付近に展開する
住宅地内に軍用地境界標も
残っています↓
4_201508272249161b9.jpg

標柱は安山岩製で、下部分が
地中に埋まっていますが、
2行にわたり「陸軍省所轄地」と
刻まれているのが読み取れます。

こういう記載パターンの標柱は
新宿の輜重兵第一大隊
赤坂の近衛歩兵第四連隊などでも
見ることが出来ますよっ★


【収録遺構】
 陸軍東京湾要塞
 要塞砲兵第一連隊

  門柱 1箇所
  軍用地境界塀 1箇所
  軍用地境界標 1本


【探訪情報】
 2005.05.15 第1回探訪
 2006.12.17 第2回探訪
 2014.05.17 第3回探訪

 歩数(指数) 約20,000歩(999)


詳細は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★


それでは、よい週末をっ!
←応援してくださいっ♪
皆様、本日もお仕事・ご講義、
誠にお疲れ様でございましたっ!

今日は、雨が降ったりやんだりで
気持ちが悪かったですね~


さてさて、今回も祐実軍團「軍報」の
第21弾といたしまして、おなじみの
「田浦」ネタといかせていただきますね。

「しつこい」って思う方もいらっしゃると
思いますが、本当に遺構だらけなんですっ!
横須賀の田浦という場所は・・・

あと3回くらいご紹介出来そうですが
適度に間隔をあけますねっ★


軍需部山防空砲台は、横須賀の軍港を
統括した横須賀海軍鎮守府の隷下に
おかれ、軍港周辺の防衛任務についた
横須賀海軍警備隊が守備する
防空砲台として、横須賀海軍軍需部を
防衛することを目的として1944年(昭和19)に
建設されました。

ここには、同隊の傘下におかれた
第一高射機銃大隊の兵員が配置され、
25ミリ連装機銃が 2基据付けられました。

現在は、山林内に遺構が放置されているため
土砂に埋もれているものの、
砲座の掩体部分と思われる土塁や、
斜面にその弾薬庫と思われる地下壕が
残っています。


毎度、おなじみのJR横須賀線の
田浦駅にやってまいりました↓



ここから比予宇トンネルがある
山の頂上を目指していきますっ。


山の中腹部分にはコンクリート製の
監視壕が残っています↓



この横に入口があるのですが
見事にジップロックされているので
内部には入れませんです(涙)↓



山頂付近には機銃座が2つ残っています。

1つ目です↓


2つ目です↓


ごめんなさい、探訪時期が悪く
写真じゃ判りづらいですよね・・・


機銃座の下には弾薬庫とおぼしき
地下壕が残っています↓



内部の様子です↓


壕の規模は小さいのですが、
特筆すべき点として、両側の入口に
扉の設置痕と、壕の中間に
弾薬庫が設けられており、
坑道が山を貫通していることです。


この他、交通路と思われる塹壕も
ところどころで散見出来ましたが
ここでは省略させてくださいっ m(_ _)m


【収録遺構】
 横須賀海軍警備隊
 第一高射機銃大隊
 軍需部山防空砲台

  地下施設 1箇所
  地下壕 1箇所
  砲座 2箇所
  その他 1箇所

【探訪情報】
 2006.02.25 第1回探訪
 2006.05.03 第2回探訪
 2014.08.13 第3回探訪

 歩数(指数) 約10,000歩(502)


詳細は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★


それでは、おやすみなさいませっZzz
←応援してくださいっ♪
皆様、こんばんわ m(_ _)m
いかがお過ごしでしょうか。

今日、通勤帰りに乗った電車が
結構混んでたんですが、
な、な、なんと・・・
三等兵の前に立っていた方が
わたくしめのホムペをスマホで
閲覧しておりました~(驚)

さすがに小さくて、どの案件を
見ていたのかは判りませんでしたが・・・

心当たりがある方は、ぜひとも
メッセージをくださいませっ!


さてさて、今回は
祐実軍團「軍報」の第20弾といたしまして
毎度おなじみ、神奈川県横須賀市に
おかれていた佐島洞窟砲台の
ご紹介をさせてくださいませ。


佐島洞窟砲台は、アジア・太平洋戦争の
末期に、アメリカ軍が計画をした
「コロネット作戦」と呼ぶ日本本土上陸作戦に
備えるため、日本軍が策定した
水際決戦の一環で構築された
洞窟式の海面砲台で、15センチカノン砲が
3門据付けられました。

現在は、一部の坑道が民家の施設や
水産加工会社の倉庫として使われて
いるものの、砲室を含む全ての坑道が
残存しています。

余談ですが、内部調査の結果、
単独/合算問わず横須賀市に残る
抵抗拠点の地下壕の中では、
佐島洞窟砲台が最大の坑道延長を
ほこっておりますっ★


横須賀市の佐島にやってきました↓


ここからちょっとした山登りと
藪漕ぎで、第一洞窟砲台の入口を
目指していきますっ!


第一洞窟砲台の坑道内部です↓


屈折しながら狭い坑道が
延々続いているのが
お判りいただけるかと思います。


第一洞窟砲台の砲室です↓


砲室は全面にコンクリートが捲かれており
中央部分に砲座が残っています。
また、写真には写っていませんが
全面コンクリート製の弾薬庫が
ありますっ。


第一洞窟砲台の内部図です↓

 ※2015.12.06 ホームページに掲載したため
  内部図を削除しましたっ★

続いて第二洞窟砲台に向かいますっ。


残念ながら、土地を管理している方の
お話ですと、砲室以降の坑道を
ふさいだとのことですので、砲室の
外観だけの撮影にとどめました↓


おそらくですが、ここも
それなりの坑道延長をもっているものと
思われますよっ。


続いて第三洞窟砲台に向かいます。


坑道の内部です↓



砲室部分です↓


ここも、第一洞窟砲台と同様で
砲室と弾薬庫部分が全面に
コンクリートが捲かれておりますっ★

現在は、民家のスタジオに使われているので
具体的な場所は伏せさせていただきます。


第三洞窟砲台の内部図です↓

 ※2015.12.06 ホームページに掲載したため
  内部図を削除しましたっ★


洞窟砲台の坑道群の山頂には
当時の遺構とおぼしき構造物が
2つ残っています。


1つ目です↓


うーん・・・
炊事関係でしょうかね・・・


2つ目です↓


うーん・・・
井戸でしょうか・・・


第二洞窟砲台の坑道延長が
判っていない状況ですが、
3つの坑道総延長は800mを
超えているものと思われます。
(第1と第3で合計602.8mです)


【収録遺構】
 横須賀海軍鎮守府佐島洞窟砲台

  地下壕 3区画
  その他 2箇所

【探訪情報】
 2006.07.01 第1回探訪
 2006.12.24 第2回探訪

歩数(指数) 約5,000歩(504)


詳細は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★


それでは、またお会いしましょうっ♪
←応援してくださいっ♪
皆様、本日もお仕事・ご講義、
お疲れ様でございました。

今回は、三等兵の肝入りサイトである
祐実総軍 ― 戦争遺跡データベース」の
お話を少しさせてくださいませ。

ここ数日、残存遺構が1つ~2つの
自治体を連日掲載することで
更新を維持しているような状態です・・・
楽しみにされている方々には
本当に申し訳ないです m(_ _)m

「おっ、戦争遺跡データベースだって!」って
期待を含んで都道府県画面から選択したら
市町村選択画面で単一自治体だけが
表示されて、その自治体を選択したら
掲載遺構がたった1つしかない・・・
仮に私が閲覧している立場であれば
「何だこれ」で終了ですよ。。。

また、ページを無理に彩りつけようと
こういう更新の仕方をしている
自分自身がもどかしくて仕方ないですが
何しろ時間が捻出出来ないもんで(涙)

一応、表向きは掲載開始から1年後の
2015年11月5日を本開業日としており
それまでにどんな形であれ
全都道府県の戦争遺跡を掲載する目標で
頑張っていたのですが、到底無理であると
判断をいたしましたっ! くうぅ・・・

つきましては、本開業日以降も
当面は下記の既出都府県と
三重・兵庫・和歌山を加えた内容での
更新とさせていただきますね↓

祐実軍團管轄
 東京都・神奈川県・埼玉県
和泉軍團管轄
 千葉県・茨城県・群馬県・栃木県
美恵軍團管轄
 愛知県・静岡県・岐阜県・山梨県・長野県
 三重県 ←追加します★
阪奈軍團管轄
 大阪府・京都府・滋賀県・奈良県
 兵庫県・和歌山県 ←追加します★

なお、本日の更新分までを含めると
現時点で1,682の遺構をご紹介させて
いただいておりますが
(フルブラウズ時で1,762)
これらの都府県が完全に掲載出来ると
約4,500超になりますっ★
(未探訪の案件も含みます)

当面はお見苦しい掲載内容と
なってしまい、大変申し訳ありませんが
引き続き、しばらくの我慢を
よろしくお願い申し上げます m(_ _)m

特に、既出都府県以外から
アクセスいただいている方々に
申し訳ない気持ちでいっぱいです。
貴方様がお住いの道県にも
戦争遺跡は存在していますっ!
いつか拙ページでご紹介させて
いただきますっ!
(それまでに死んじゃったらゴメンナサイ)


ここからは私に関係する方々へ
お願いでございますっ★

今までもご協力を賜りましたが
これまで以上に力を注ぎたいので
上記都府県に該当する遺構の
写真提供をお願い申し上げます。
(この際、当方未探訪も含めます)

久々にメール・ラインが来たと思ったら
写真提供のお願いだなんてことも
あるかもしれませんが、関係者の
皆様の調査実績を紹介する
ホームページでもあり、
これまでの皆様の軌跡も形にして
いきたいと考えておりますので
どうかご協力くださいませ m(_ _)m

 ※特に喫緊で募集したい写真は以下です↓
  ・静岡県下田市の
   湊海軍病院の全遺構(写真消失)
  ・神奈川県相模原市の
   陸軍電信学校の全遺構(写真消失)
  ・栃木県宇都宮市の
   陸軍清原飛行場の掩体(未探訪)
   中島飛行機の全地下工場(写真消失)
  ・東京都昭島市の
   中神軍用線の全遺構(写真消失)
   立川陸軍航空工廠の全遺構
   (写真消失)

当方と面識がない方々でも
三等兵の想いに協力してやってもよいと
いう方がいらっしゃれば、
写真・情報提供、なんでもいいです。
以下のメールにお知らせください↓
 yumisogun.yamasan@gmail.com
 (ただし、ひやかしやプライベートには
  返信しませんので悪しからず)


【本日の写真】
千葉県館山市におかれた
館山海軍航空隊の赤山地下壕上層の
通信施設といわれている地下壕↓





それでは、またお会いいたしましょう。
皆様、日曜日をいかがお過ごしでしょうか。
明日から平日が続きますねっ(涙)

今日は24時間テレビを観てるので
「サザエさん病」にはなっていませんが
このままいくと「おしゃれイズム」あたりで
発症するものと思われます(笑)


さてさて、今回は
美恵軍團「軍報」の第9弾といたしまして
愛知県豊橋市におかれていた
陸軍第十五師団の司令部関係の遺構を
ご紹介させてくださいませ。

第十五師団は、日露戦争の開戦により
新設された4師団(第十三~第十六)の
1つで、1905年(明治38)に豊橋で
編制されました。

師団新設の背景には、日露戦争での
苦戦があり、日本は既成の師団を
全て戦地へ投入し、日本国内に駐留する
師団がなくなってしまったためです。

日露戦争後、第十五師団は
朝鮮半島内の警備にあたるため
動員されますが、1925年(大正14)の
軍縮で師団そのものが廃止となりました。

昭和に入ると、下士官を養成した
陸軍教導団の後釜である教導学校が
開設され、第十五師団の跡地を利用して
歩兵科の下士官候補生の育成が
行われましたが、その後の組織改正や
予算都合などにより、最終的に
予備士官学校として使用されました。

一方、軍縮で廃止された第十五師団は
1938年(昭和13)に日中戦争遂行のため
編制地を京都に変更して再編制され
インパール作戦などに参戦して
甚大な被害を出し、転進先のタイで
終戦を迎えました。

現在、跡地のほとんどは愛知大学の
敷地として活用されていますが、
当時の建物が残っており
見学することが可能です。


愛知大学にやってまいりました↓


ちなみに、この門柱は
当時のものといわれています。


大学内に司令部庁舎が残っています↓


建物は1908年(明治41)に建てられ
基礎部分が煉瓦の木造2階建て構造と
なっています。


これも当時の建物です↓



豊橋鉄道の線路脇には
軍用地境界塀が広い範囲で
残っています(抜粋)↓



ん? これは何でしょうね?↓



大学から北西に500mほど離れた
場所に第15師団長の官舎があります。


門柱です↓



官舎です↓


建物は1912年(明治45)に建てられ
基礎部分が煉瓦の木造平屋構造と
なっています。


付属建物です↓



当時の井戸と思われます↓



通用門も残っています↓



門柱脇には軍用地境界標が
1つだけ残っています↓



この後は、名古屋に住む旧友と
2年ぶりの再会をはたすために
豊橋から名古屋へ移動し
居酒屋で泥酔した三等兵なのでした。


【収録遺構】
 陸軍第十五師団
 師団司令部

  建物 4棟
  門柱 3箇所
  軍用地境界塀 2箇所
  軍用地境界標 1本
  その他 2箇所

【探訪情報】
 2013.09.20  第1回探訪

 歩数(指数) 8,292歩(96)


詳細は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★

また、別件でホームページの
更新を少しだけしております。

今回の対象は以下です↓
 滋賀県米原市(1)
 山梨県大月市(1)
 埼玉県坂戸市(1)・川越市(2)

お時間がある時にでも見てください↓
 祐実総軍 ― 戦争遺跡データベース


それでは、またお会いいたしましょう★
←応援してくださいっ♪
皆様、こんばんわっ!
土曜日をいかがお過ごしでしょうか。

三等兵の地元では花火大会がありまして
見に行ってまいりましたっ★

ですが・・・

終わった後の虚無感が半端ない(涙)
夏も終わりなのですね・・・


さてさて、気持ちが下がる前に
本日も遺構紹介をさせていただきます★
本日は、祐実軍團「軍報」の
第19弾といたしまして、
神奈川県横須賀市におかれた
横須賀海軍軍需部の比予宇火薬倉庫の
遺構をご紹介させてくださいませ。
(また田浦ネタです)


毎度のご説明になってしまいますが
海軍軍需部は、兵器や燃料・物資などを
全国の生産工場などから収集し、
前線にこれらを補給する重要な役割を
果たしていた部署で、物資を送り出すまでの
間は一時的な保管が必要であるため
沢山の保管倉庫が建設されました。
このうち、比与宇倉庫は弾薬類を保管する
目的で設置され、誘爆しないように
土塁で囲まれた火薬庫と付属施設が
おかれました。

戦後、敷地はアメリカ軍に接収されましたが
現在は返還され、海上自衛隊が
そのまま使用しており、建物や地下壕が
現存しています。


今回は京浜急行電鉄カーブ式会社の
安針塚駅スタートですっ↓



毎度おなじみ、比予宇トンネルを
抜けていきます↓


この比予宇トンネルは、普通の
トンネルだなんて言わせませんよ(笑)
(この私が許しませんですっ)
ここだけで飲み会のワンタイムに
匹敵するくらい語れますっ★
あえて、ここではしませんが(笑)


トンネルを抜けて右側の自衛隊敷地が
火薬倉庫跡で、現在も数棟の建物が
活用されています(抜粋)↓



火薬倉庫と比予宇トンネルとの間の
山に地下壕が残っています↓


内部の様子です(抜粋)↓


内部は素掘り構造で、ところどころで
坑道の補強痕が残っています。
また、海軍食器や海軍マーク入りの
瓶なども散見出来る貴重な地下壕です。

一番の目玉はこれでしょうか↓


十二月六日
武井
島田
笹本
坂本

これ、よくあるいたずら書きなんかじゃ
ないですからね~(汗)

おそらく、掘削に携わった方々の
メッセージであると思いますが
意図は読み取れませんでした。。。


地下壕の内部図です↓



【収録遺構】
 横須賀海軍軍需部比与宇火薬倉庫

  建物 3棟
  地下壕 1区画

【探訪情報】
 1996.02   第1回探訪
 2005.04.17 第2回探訪
 2006.05.03 第3回探訪
 2006.05.05 第4回探訪
 2006.05.13 第5回探訪
 2006.06.17 第6回探訪

 歩数(指数) 50,000歩以上(999)


詳細は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★


それでは、またお会いしましょうっ♪


【関係者の皆様へお知らせ】
 メールでご連絡させていただきましたが
 ご指名させていただいた皆様からの
 ご回答を受けまして、とりあえず
 9月21日(月)をサミット候補日として
 これから調整をさせていただきます。
 詳細は改めてご連絡しますねっ!


下の写真の地下壕がどこか判ったら
確実に三等兵の関係者です(笑)↓



ではではっ★


←応援してくださいっ♪
皆様、おはようございますっ!

このブログの機能に「予約投稿」なんて
いいものがあるんですね~
いまさら知ってしまいました。。。

さっそく、この機能を使わせて
もらいますっ★


さてさて、今回は
前回の加太砲台に続き
阪奈軍團「軍報」の第15弾といたしまして
和歌山県和歌山市におかれていた
陸軍由良要塞の田倉崎砲台の
遺構をご紹介させてくださいませ。


田倉崎砲台は、加太地区に
配備されていた由良要塞の1つで
1904年(明治37)に完成し
28cm榴弾砲が6門据え付けられました。

現在、砲台の跡地は
和歌山市立少年自然の家の
アスレチック場となっており
一部が滅失していますが、
遺構のほとんどが良好な状態で
残存しています。

なお、市立少年自然の家の
営業時間内であれば、見学は
自由に出来ますが、そのほかの
時間帯は中に入れないので
事前に営業時間を確認して
おきましょうっ★(定休日もあります)


少年自然の家の建物から
アスレチック場を目指していきます↓



さらに進んでいくと、3つの砲座が
お出迎えでございます。

まずは1つ目です↓


砲座は、壁面部分と即用弾置場が
煉瓦で構築されており、胸墻部分が
高くなっています。また、中央部分には
28cm榴弾砲を据え付けた跡が
円を描いて各2つずつ残っています。


2つ目の砲座です↓


3つ目の砲座です↓


3つ目の砲座で、写真撮りに夢中で
円形の砲床部分に水が溜まっていると
気が付かずにドボンしました・・・
2月のクソ寒い時期に(恥)


また、各砲座間に挟まれるように
3つの弾薬庫が残っています。

1つ目です↓


外側は石で構築されており、
ポイント部分にコンクリートが
使われています。また、入口部分は
煉瓦が使用されています。

2つ目です↓


3つ目です↓


残念ながら、全ての入口が
封鎖されており、中に立ち入ることは
出来ませんが、隙間から覗くことができ
基本的な構造は加太砲台の
掩蔽部と同様であることが判ります。


当時の水槽だと思われます↓



加太砲台にもあったコンクリート製の
地下施設ですっ↓


内部の様子です↓


地下施設は、全面コンクリート製の
平屋構造で、用途は解っていませんが
入口や窓の形状が一般的な
砲台施設のものと非常に似ており、
当時の石垣にも囲まれているため
砲台関連の施設であった可能性が
極めて高いです。

内部は、縦 9m・横 3mの空間と
なっており、入口部分に通風口・
背面部分に窓と通風口・側面部分に
窓が2つずつ設けられています。

また、壁面は厚さ1mもある
コンクリートで強固に構築されています。


地下施設の周りには
飲料水路の標柱が残っています(抜粋)↓



ここにも水槽の跡が残っています↓


地下施設・飲料水路標柱・水槽の
構成から推測する限りでは、兵舎や
待避所などの棲息施設に使われて
いたのではないかと思われますが、
資料などには記載がないので
何とも言えません・・・


続いて、右翼観測所の遺構です♪

掩蔽部です↓


この向かいに、確か井戸のような
構造物があったはずなのですが
見事に撮り忘れました・・・

遠征で一番やってはいけない
大失態です(恥)

掩蔽部は全面コンクリート製で、
入口部分は幅80cm・高さ1m85cmで
左側に40cm程の窓枠が残っています。
内部は、長さ3.5m・高さ2mの
空間となっています。

入口部分の右側には、右翼観測所に
繋がる階段が残っていますが、
右翼観測所は見晴らしの丘の
設置工事で消失しており、
これを囲んでいた石垣部分のみが
残っています。

測遠器の台座跡でしょうかね↓



続いて、左翼観測所に進みますっ♪

掩蔽部です↓


掩蔽部は全面コンクリート製で
入口部分は幅80cm・高さ1m85cmを測り
入口左側に40cm程の窓枠が残り
基本は右翼観測所の掩蔽部と
同じ造りのようです。内部は、高さ2m・
長さ 3.5mの空間となっていますが、
右翼観測所の掩蔽部とは異なり、
入口と垂直方向に拡がっており、
最深部に観測所へ接続している
グレース先生の大好きな伝声管の
丸穴が開けられています。

観測所です↓



最後に、この砲台を囲むように
周囲に設置されていた
防御営造物境界標を抜粋で
ご紹介いたします。

まず、由良要塞オリジナルと
思われる初期設置タイプです↓


少年自然の家の南方にある
バーベキュー場の南をはしる
遊歩道脇に残存しており、
2本の同系標柱を確認しています。

標柱は安山岩製で、表面に「陸」の文字と
通し番号が明朝体で記載されており、
番号は数字形式ではなく、イロハ形式で
表記されています♪


初期型と同期と思われるタイプです↓


少年自然の家の南方にある
バーベキュー場の西側から
「たらたら坂」と呼ばれる林道脇に
幅広く残存しており、 3本の同系標柱を
確認しています。

また、少年自然の家の南方に位置する
バードバスの西をはしる林道内に
2本残存しています。

標柱は安山岩製で、風化が著しいため
上部が割れているものもありますが
表面には「陸」の文字と漢数字表記の
通し番号が明朝体で記載されています。


これは、他の要塞地区にも残っている
当方で標準と定めているタイプです↓


少年自然の家の南方にある
「たらたら坂」と呼ばれる林道沿いに
複数残っており、 5本の同系標柱を
確認しています。

また、バーベキュー場の南西側の斜面と
バードバスの西をはしる林道内にも
数本ですが残存しています。

標柱は花崗岩製で、風化が
進んでいますが、表面に「陸」の文字、
背面に「防」の文字と漢数字で表記された
通し番号・枝番号が入り、一部は文字が
黒く塗装されています。

このタイプの標柱は、陸軍の
永久要塞に最も多く設置されていると
思われますよっ★


これが末期型ではないでしょうか↓


少年自然の家の南方にある
キャンプ場付近の斜面に残存しており、
4本の同系標柱を確認しています。

標柱はコンクリート製で、表面には
「陸」の文字、背面には「防」の文字と
漢数字表記の通し番号がゴシック体で
記載されています。


記録を終え、案内板に沿って
来たルートと違う道で加太駅方面へ
戻ったのですが、道が谷底へ
落ちてしまっており、林の中で
ガチ遭難をしました~(笑)


【収録遺構】
 陸軍由良要塞田倉崎砲台

  砲座 3箇所
  観測所 1箇所
  地下施設 6箇所
  軍用地境界標 21本
  その他 4箇所

【探訪情報】
 2008.02.27 第1回探訪

 歩数(指数) 30,000歩以上(448)


詳細は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★


それでは、またお会いしましょうっ♪

←応援してくださいっ♪
皆様、こんばんわm(_ _)m
火曜日をいかがお過ごしでしょうか。
今日も関東地方は暑かったですね~(汗)


さてさて、今回は阪奈軍團「軍報」の
第14弾といたしまして、
和歌山県和歌山市におかれていた
陸軍由良要塞の加太砲台の遺構を
ご紹介させていただきますねっ★


陸軍由良要塞は、日本第二の
経済都市であった大阪の防衛を目的に
紀淡海峡から大阪湾への敵艦船の
侵入を防ぐために構築された
強力な火砲群と、これに関連する
施設群の集合体です。

これらは加太地区・沖ノ島地区(友ヶ島)・
由良地区(兵庫県洲本市)にそれぞれ配備され
連携しながら敵艦船を撃滅させる
強力な火網を形成していました。

加太砲台は、由良要塞の 1つとして
加太地区に配備された砲台で、
1904年(明治37)に完成し、27cmカノン砲が
4門据え付けられていました。

現在、砲台の跡地に和歌山市立少年自然の家が
建てられており、砲台の一部が滅失してますが
比較的良好な状態で残存しています。

ちなみに市立少年自然の家の
営業時間内であれば見学は自由に出来ますが
そのほかの時間帯は内部に入れないので
事前に営業時間を確認しておくことを
お奨めいたしますっ★(定休日もあります)


南海電車の加太駅から歩いて30分くらいの
場所にある市立少年自然の家に
やってまいりました↓



中に入ると、さっそく砲座がお出迎えです↓


砲座は、砲床と砲側庫部分にコンクリートが
使用され、背部は石で造られています。
また、中央部分には27cmカノン砲を
据え付けた跡が円を描いて残っており、
周りには砲の固定に使用された
ボルト群も見ることが出来ます。


もう一つの砲座は、中央にアスレチック場へ
向かう道路が貫通しており、残念ながら
一部しか残っていません↓



各砲座間には、弾薬庫が設けられており
2つを確認することが出来ます(抜粋)↓


外側は石で構築されており、ポイント部分に
コンクリートが使われています。
また、入口部分は煉瓦が使われており
地表よりも数段低い位置にあります。

内部はコンクリートで構築されており、
最深部分は丸みを帯びた造りで
幅 2.5m・高さ2m・長さ5mの空間と
なっています。


右翼砲台長立台です↓



右翼観測所と付属掩蔽部です↓



観測所はコンクリート製で円形を呈しており
中央部分には測遠器を据えつけた
台座の跡が残っており、背面部分は
掩蔽部に接続されています。


グレース先生っ! 出番ですよっ★↓



ちなみに、現在は消失していますが
園内の給水タンクがある部分に
左翼観測所がおかれていました。


右翼観測所の北側の山林内には
防御営造物境界標が2つほど
残っております(抜粋)↓


標柱は安山岩製で、表面に「陸」の文字と
漢数字表記の通し番号が明朝体で
記載されています。

これは、由良要塞オリジナルの
標柱っぽいですね。しかも初期型っ★


近くに残る関連遺構です↓



「飲料水路」と記載された標柱です↓


現在のところ、設置目的は解っていませんが
これと同様の標柱が田倉崎砲台や
友ヶ島第二砲台にも残っており、
砲台に関連する遺構であることは
間違いなさそうです。


左翼砲台長立台です↓



少年の家を後にして、淡島神社方面に
向かっていきますが、遺構はまだまだ
残っておりますっ★


まず、付属建物です↓



トイレです↓



関連地下施設です↓


全面コンクリート製の平屋構造で、
用途は解っていませんが、入口や窓の
形状が一般的な砲台施設のものと
非常に似ており、当時の石垣に
囲まれているため、砲台関連の施設で
あった可能性が極めて高いです。

内部は、縦 3m・横 9mの空間となっており
側面部分に窓と通風口、背面部分に
窓が 2つ設けられています。また、壁面は
厚さ 1mのコンクリートで強固に
構築されています。

これらの構成から推測する限りでは、
兵舎や待避所などの棲息施設に
使われていたのではないかと
思われますが、資料などには記載がないので
何とも言えません・・・

現在は、特に活用されておらず、
放置された状態なので内部を
見学することが可能です。

余談ですが、これに似た構造物が
田倉崎砲台にも残っていますっ★


門柱です↓



おいっ!なにやってんだっ!
ワンちゃんに怒られてしまいました↓



淡島神社に近い住宅地内にも
防御営造物境界標がいくつか
残っています(抜粋)↓



ここで17時の時報が流れ、
遠征の最期を感じた三等兵でした・・・

いつかは、当方に関係する皆様を
ここへご案内したいと思っていますっ★
皆様、2泊3日でやりましょうねっ♪
(よろこんで企画させていただきますよ)


【収録遺構】
 陸軍由良要塞加太砲台

  砲座 2箇所
  観測所 1箇所
  地下施設 4箇所
  建物 2棟
  門柱 1本
  軍用地境界標 9本
  その他 4箇所

【探訪情報】
 2008.02.23  第1回探訪
 2008.02.27 第2回探訪
 2008.03.18 第3回探訪

 歩数(指数) 50,000歩以上(999)


詳細は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★


それでは、またお会いしましょうっ♪

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