戦争遺跡のご紹介やホームページの制作状況などを綴っていきます♪

総軍BLOGへようこそっ!

♦ プロフィール

祐実総軍三等兵

Author:祐実総軍三等兵
全国に残る戦争遺跡を探訪して
記録することを生き甲斐とする
祐実総軍三等兵でございます★
稚拙な内容ではございますが、
これまで調べてきた戦争遺跡を
ブログ・ホームページで紹介を
させていただいておりますっ♪

よろしくお願いしますm(__)m

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皆様、休日をいかがお過ごしでしょうか。
三等兵は忙しいうえに風邪をひいてしまい
ブログ・ホムペの更新がすっかり滞って
しまいました・・・申し訳ありません m(_ _)m

さてさて、本日は祐実軍團「軍報」の
第50弾といたしまして、神奈川県三浦市に
おかれていた陸軍東京湾要塞の
剣崎砲塔砲台の遺構をご紹介させてください。


剣崎砲塔砲台は、東京湾要塞の 1つで
1927年(昭和 2)に竣工し、15cmカノン砲 2門入の
砲塔が 2基おかれ、主に大房岬砲台と連携し
東京湾に向かって侵入する敵艦船に対しての
防圧を目的としました。

現在、跡地は丘陵を利用した畑地になっており
往時の全容は判然としませんが、
砲座部分や地下施設の一部が現存しています。


半島の南端、三浦市に来ております↓



畑の中に砲座が2つ残っています。

1つ目の砲座ですっ↓


2つ目の砲座ですっ↓



弾薬庫の入口部分ですが
野菜の屑などが放り込まれており
中に入ることは出来ません・・・↓



雨崎電灯所の探照灯格納庫です↓



関連する建物であると思われます↓



この北の海岸付近にも関連する遺構が
残っています。

貯油庫といわれている遺構です↓


関連建物の基礎部分であると思われます↓


こちらも関連する遺構であると思われます↓



この海岸には、陸軍の中戦車が
逆さまになって埋もれていたのも
今は昔の話です・・・↓



【収録遺構】
 陸軍東京湾要塞
 剣崎砲塔砲台

  砲座 2箇所
  建物 2棟
  地下施設 2箇所
  その他 1箇所

【探訪情報】
 2006.04.15  第1回探訪

 歩数(指数) 約10,000歩(100)


詳細は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★

それでは、喉がイタイイタイなので
布団に入るとしますねっ
それでは、おやすみなさいませっZzz
←応援してくださいっ♪
皆様、火曜日をいかがお過ごしでしょうか。
三等兵は色々とバタバタしておりますっ!

今日は、阪奈軍團「軍報」の
第24弾といたしまして、
同軍管区内で記録がかなった
様々な陸軍用地境界標を
簡単ではございますが、
ご紹介させていただこうと思います。


まずは、陸軍省所轄地と記載されている
タイプからご紹介しますっ(抜粋)

真田山陸軍埋葬地
(大阪府大阪市)↓


大阪陸軍砲兵工廠宇治火薬製造所
(京都府宇治市)↓


陸軍第十六師団輜重兵第十六大隊
(京都府京都市)↓



次に、陸軍用地と記載されている
タイプをご紹介しますっ(抜粋)

大阪陸軍砲兵工廠
(大阪府大阪市)↓


陸軍京都憲兵隊
(京都府京都市)↓


奈良陸軍埋葬地
(奈良県奈良市)↓


東京第二陸軍造兵廠宇治製造所
木幡軍用線(京都府宇治市)↓



お次は、陸軍省用地と記載されている
タイプですっ(抜粋)

大阪陸軍砲兵工廠
(大阪府大阪市)↓


大阪陸軍砲兵工廠宇治火薬製造所
(京都府宇治市)↓



続きまして、陸軍省と記載されている
タイプのご紹介ですっ(抜粋)

大阪陸軍兵器支廠祝園分廠
川西軍用線(京都府相楽郡精華町)↓
RIMG1538.jpg

陸軍第十六師団万帖敷演習場
(京都府京都市)↓



続きまして、陸軍地と記載されている
タイプのご紹介です(抜粋)↓

大津陸軍埋葬地
(滋賀県大津市)↓


陸軍第四師団歩兵第九連隊
(滋賀県大津市)↓



続きまして、陸軍と記載されている
タイプですっ(抜粋)

大阪陸軍偕行社
(大阪府大阪市)↓


陸軍第四師団工兵第四連隊
(大阪府高槻市)↓
工兵第四連隊軍用地境界標


最後は陸と記載されている
タイプですっ★

陸軍第四師団大谷射的場
(滋賀県大津市)↓
P1120790.jpg


ご紹介させていただいた標柱は、
ほんの一部にすぎません。
これからも見つけていきますので
今後の成果をご期待くださいませっ★

それでは、おやすみなさいませっZzz
←応援してくださいっ♪
皆様、日曜日をいかがお過ごしでしょうか。
三等兵は重度の「さざえさん病」です・・・
仕事行きたくないです~(笑)

仕事納めは12月25日なので、
12月26日か27日~12月29日まで
関西方面へ遠征に行こうと思っています。
いないと思うけど・・・
行く人いますか~?(笑)


さてさて、本日は真己軍團「軍報」の
第5弾といたしまして、
広島県広島市におかれていた
陸軍被服本廠の広島出張所の遺構を
ご紹介させてくださいませ。


被服廠は、軍服や軍靴などの
兵隊が身に付ける装備品を製造していた
陸軍直轄の工場で、東京の本所に
本廠がおかれ、広島出張所は大阪に次ぐ
3番目の被服廠の部署として
1905年(明治38)に開設されました。

その後、広島は大陸へ兵士や物資を送る
重要な軍事拠点となったため、
被服本廠の出張所から支廠へと昇格し、
太平洋戦争の終戦まで機能が存続しました。

現在、敷地跡地は県立広島工業高校や
合同宿舎などに変遷していますが、
倉庫や塀の一部などが残存しており
見学することが出来ます。


広島電鉄の皆実町6丁目電停です↓


現在の関東地方では、お目にかかれない
路面電車のトライアングルクロスです(笑)


ここから10分ほど東へ進んでいくと
当時の倉庫が4つ残っていますよっ★

まず、1つ目です↓


2つ目の倉庫です↓


倉庫間には塀が残っています(抜粋)↓


おピンちゃん先生と建物を比較すると
こんな感じですっ↓


全景を撮影するのは
なかなか難しいです(汗)

3つ目の倉庫です↓


よく見ると、窓部分の鉄板が
へしゃげていますが、これは
決して戦後のいたずらではありません。
全て「原爆」の破壊力によるものです(汗)
爆心地から3キロ近く離れていても
この威力・・・。

この三等兵たるもの、
広島を探訪するまでは、
戦争遺跡というものを少し
甘く捉えていたかもしれません。

4つ目の倉庫です↓



通用門と思われます↓



敷地北側にも塀が残っています↓



原爆関連遺構が展示されている
平和祈念館にも塀の一部があります↓



【収録遺構】
 陸軍被服本廠広島出張所
 (広島陸軍被服支廠)

  建物 4棟
  門柱 1箇所
  軍用地境界塀 6箇所

【探訪情報】
 2015.11.20  第1回探訪

 歩数(指数) 2,150歩(100)


詳細は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★


それでは、ホームページの制作に
励みますので、本日はこれにて
失礼させていただきますっ m(_ _)m
←応援してくださいっ♪
皆様、いかがお過ごしでしょうか。
といっても、まだ寝ている時間ですよね~

さてさて、本日も引き続き
祐実軍團「軍報」の第49弾といたしまして
神奈川県横須賀市に設置されていた
海軍横須賀造船所の専用水道の
遺構をご紹介させてくださいませ。


横須賀造船所の専用水道は、
横須賀海軍工廠の前身である
横須賀造船所の規模拡張によって、
大量の水が必要となり、これを補うために
南東の走水の水源地より、造船所の
内部へ水を引き込む目的で建設された
水道路で、明治時代のお雇い外国人の
1人であるフランスのベルニー技師の
手によって1876年(明治9)に完成しました。

1884年(明治17)の海軍条例によって
横須賀海軍鎮守府が設置されると
横須賀造船所は鎮守府の管轄となり、
横須賀海軍工廠と改称されますが
その後も海軍力の増強が推し進められたことで
走水の水道路だけでは水を賄うことが
出来なくなり、遠く離れた中津川より
水を引き込むため1918年(大正7)に
半原系統を新たに建設して、
2系統となりますが、昭和時代に入ると
さらに水需要は増加をたどり、
相模川からの水を引く有馬系統も
計画されましたが、完成せず
終戦となりました。

現在、これらの水道路は
横須賀市水道局に引き継がれており
一部は使用されています。また、当時の
遺構も残っており、一部の施設は
近代化遺産として保存されています。


日頃の爆走に定評がある
快特電鉄の馬堀海岸駅にきました↓



ここから、最奥にあたる
覚栄寺裏の貯水池まで一気に進み
横須賀中央方面に戻りながら
遺構をご紹介させていただきますね。


明治28年完成の煉瓦製貯水池です↓



同じく、明治28年完成の
コンクリート製の貯水池です↓



周辺には軍用地境界標が
いくつか残っています(抜粋)↓



明治35年完成の煉瓦製貯水池です↓



こちらは、明治41年完成の
鉄筋コンクリート製貯水池です↓



走水第2トンネルです↓



走水第1トンネルです↓



トンネル付近に残る
軍用地境界標です↓



堀ノ内に残る止水栓の蓋です↓



県立大学駅付近に残る
止水栓の蓋です↓



【収録遺構】
 海軍横須賀造船所専用水道
 (横須賀海軍水道路走水系統)

  建物 4棟
  軍用地境界標 6本
  トンネル 2箇所
  その他 2箇所

【探訪情報】
 2005.05.29  第1回探訪
 2006.04.09  第2回探訪 
 2007.01.02  第3回探訪
 2007.12.29  第4回探訪
 2014.05.24  第5回探訪
 2014.06.01  第6回探訪
 2015.12.05  第7回探訪

 歩数(指数) 約50,000歩(999)


詳細は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★


それでは、今日も頑張りましょう♪
←応援してくださいっ♪
皆様、いかがお過ごしでしょうか。
昨日、地下鉄に乗って帰宅途中に
お得意の「車両点検」により、全線で
運転見合わせをくらってしまい
帰宅に2時間以上かかりましたよ・・・
どうして「車両故障」って言えないんだろう。
潔さが本当にないな。

たかが、車両の「点検」程度で
全線が30分以上止まってしまうような
クソ電車を走らせているなんて
大問題ですよ。東京メトロ。
「点検」ではなく「故障」です。


さてさて、愚痴が過ぎてしまいましたが
こんな時間に祐実軍團「軍報」の
第48弾といたしまして、毎度おなじみの
神奈川県横須賀市におかれていた
陸軍東京湾要塞の観音崎弾薬本庫の
遺構を簡単にご紹介させてくださいませ。


観音崎弾薬本庫は、観音崎地区の
各砲台で使用する砲弾類を一元管理する
目的で1884年(明治17)に建設が開始され
1885年(明治18)に観音崎第二砲台の
トンネル内に日本で最初となる煉瓦造りの
洞窟式弾薬庫が完成しました。
その後、日清戦争で各砲台が配備に
ついたことから、繋船場所の近くに
煉瓦造り平屋構造の弾薬庫を建設しました。

現在、洞窟式の弾薬庫は
東京湾海上交通センター敷地内に
残存しており、入口部分が封鎖されています。
一方で平屋構造の弾薬庫は、
最近まで観音崎青少年の村の施設に
使われていましたが閉鎖され、
建物群を整備して再利用する工事が
行われております。


「3分トンネル」の通称で有名な
観音崎第二砲台のトンネルに
来ております↓



トンネル内で垂直方向に分岐を
するような形で煉瓦造りの
弾薬庫が2つ残っていますが
どちらも入口部分が塞がっています。

1つ目の弾薬庫です↓


2つ目の弾薬庫です↓


あまり判りませんが、内部の様子です↓



ここから西に位置している
観音崎トンネルの北側に
地上式の弾薬庫が3棟残っています。

1つ目の弾薬庫です↓


2つ目の弾薬庫です↓


3つ目の弾薬庫です↓



ここから海岸方向へ進んでいくと
係船場と荷揚桟橋が残っています↓



【収録遺構】
 陸軍東京湾要塞
 観音崎弾薬本庫

  建物 3棟
  地下施設 2箇所
  その他 2箇所

【探訪情報】
 2005.05.29  第1回探訪 
 2007.01.02  第2回探訪
 2014.05.24  第3回探訪
 2015.12.05  第4回探訪

 歩数(指数) 約15,000歩(999)


詳細は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★


それでは、おやすみなさいませっ★
←応援してくださいっ♪
皆様、週初めの月曜日を
いかがお過ごしでしょうか。

三等兵は絶賛体調不良です・・・
ここで尽きるわけには・・・


さてさて、本日も祐実軍團「軍報」の
第47弾といたしまして
神奈川県横須賀市におかれていた
陸軍東京湾要塞の南門第二砲台を
ご紹介させてくださいませ。


南門第二砲台は、東京湾要塞の1つとして
1893年(明治26) 8月に竣工し、
12センチ速射カノン砲を4門と
9センチ速射カノン砲を4門備砲し
戦闘配備につきましたが、大正に入り
関東大震災で被災し、復旧されることなく
1925年(大正14)に除籍されました。

現在、砲台跡地は観音崎自然博物館や
観音崎公園の展望園地として整備されており
遺構はほとんど残っていませんが
2つの砲座と水尺と思われる遺構などを
見ることが出来ます。


観音崎公園の展望園地に来ております↓



砲座部分です↓


2014年に探訪した時は榴弾砲の
レプリカが設置されてましたが
撤去されてしまったようで・・・↓


ピンボケですが、2007年1月に探訪時の
砲座はこんな感じでした↓



もう1つの砲座部分です↓



電灯所へ供給するための
発電機室がおかれていた箇所の
石垣部分です↓



通りを跨いだ背面部分に
当時の建物が残っています↓



水尺とおぼしき遺構も
海面に残っています↓
P1150620.jpg


【収録遺構】
 陸軍東京湾要塞
 南門第二砲台

  砲座 2箇所
  建物 1棟
  その他 2箇所

【探訪情報】
 2005.05.29  第1回探訪 
 2007.01.02  第2回探訪
 2014.05.24  第3回探訪
 2014.06.01  第4回探訪
 2015.12.05  第5回探訪

 歩数(指数) 約25,000歩(999)


詳細は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★


それでは、よい1日をっ♪
←応援してくださいっ♪
皆様、週末をいかがお過ごしでしょうか。
関東地方は、土・日ともに行楽日和ですねっ★

さてさて、本日は祐実軍團「軍報」の
第46弾といたしまして、神奈川県横須賀市に
おかれた陸軍東京湾要塞の
花立台保塁砲台の遺構を
ご紹介させてくださいませ。


花立台保塁砲台は、東京湾要塞の1つで
1894年(明治27)12月に竣工し、
日露戦争の開戦までに28センチ榴弾砲8門を
中心として、12センチ速射カノン砲4門と
9センチ速射カノン砲4門・15センチ臼砲4門が
据付けられる強力防備体制でしたが、
戦中は28センチ榴弾砲のみが防備を担当し
その他は他方に転用されたようです。

大正に入って関東大震災が発生すると、
甚大な被害を受け、復旧されることなく
1925年(大正14)に除籍されました。

ちなみに、この砲台の敷地は東西350メートル・
南北 250メートルに及ぶ広大なもので、
設計は後に陸軍大臣・教育総監・参謀総長の
三長官を歴任し、後の元帥となった
上原勇作工兵大尉です★

現在、跡地は防衛大学校のグラウンドに変遷し
整地されていますが、観測所や地下施設の
一部が残っています。


ハアハア、花立台にやってきました↓


今回で2回目の探訪となりますが
両回とも、いっちゃん先生とOKN先生が
同行しておりますっ★


砲床の一部です↓



弾薬庫の通風口です↓


残念ながら、整地されているため
地下施設の原形は留めていません・・・


棲息掩蔽部群の通風口です(抜粋)↓


残念ながら、こちらも通風口部分しか
現認出来ませんが、空間自体は
残っているものと思われます↓



指揮所跡です↓



左翼観測所です↓



地下施設がほぼ原形で唯一残る
観測所掩蔽部です↓


内部の様子です↓



【収録遺構】
 陸軍東京湾要塞
 花立台保塁砲台

  砲座 1箇所
  観測所 1箇所
  地下施設 7箇所
  その他 1箇所

【探訪情報】
 2007.01.02  第1回探訪
 2015.12.05  第2回探訪

 歩数(指数) 約30,000歩(924)


詳細は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★


それでは、よい1日をっ♪
←応援してくださいっ♪
皆様、いかがお過ごしでしょうか。
金曜日が終われば週末ですね。

三等兵の土曜日は、戦争遺跡探訪同好会の
諸先生方と神奈川県横須賀市の観音崎へ
赴きますので、同日はよろしくお願いいたします。

さてさて、本日は木曜日に引き続き
真己軍團「軍報」の第4弾といたしまして
広島県広島市におかれていた
陸軍第五師団の歩兵第十一連隊の
遺構をご紹介させてくださいませ。


歩兵第八連隊は第五師団に隷属する
基幹部隊で、1875年(明治 8)に
師団編成の前身にあたる広島鎮台の
隷属部隊として編制されました。

戦歴も古く、西南戦争をはじめ
日清戦争や日露戦争では主要な作戦に
参加し戦果を出しており、昭和に入ると
満州へ駐屯して日中戦争に参戦し
太平洋戦争ではマレー作戦に参加し、
その後はマレーシアの警備にあたり、
終戦間際になるとインドネシアに転進して
終戦となりました。

現在、敷地跡は広島城址公園として
整備されていますが、門柱や灯篭が
移設保存されています。


おピンちゃん先生と広島城付近に
来ておりますっ↓



門柱です↓



灯篭です↓



【収録遺構】
 陸軍第五師団
 歩兵第十一連隊

  門柱 1箇所
  その他 1箇所

【探訪情報】
 2015.11.20  第1回探訪

 歩数(指数) 306歩(100)


詳細は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★

土曜日は、調査のためブログ掲載を
お休みさせていただきますねっ m(_ _)m

それでは、またお会いしましょうっ♪
←応援してくださいっ♪
皆様、木曜日をいかがお過ごしでしょうか。
毎日、朝夕が寒いですね・・・


さてさて、本日は真己軍團「軍報」の
第3弾といたしまして、甚だ簡単ではありますが
広島県広島市におかれていた
陸軍第五師団司令部の遺構を
ご紹介させてくださいませ。


第五師団は師団編成の前身である
広島鎮台より改編をうけ1888年(明治21)に
発足した最も古い陸軍師団のうちの1つで
広島城に隣接する形で師団の司令部が
おかれました。

戦歴も古く、日清戦争から日露戦争・
シベリア出兵・日中戦争を経て、
太平洋戦争では南方の作戦にも
参加しており、常に中核を担う部隊として
活躍しました。

1894年(明治27)の日清戦争では
前線に向かう兵站基地となった
広島市での統帥を目的として
東京の皇居におかれていた大本営を
第五師団の司令部に移したため、
広島市は一時的に臨時の首都機能をも
担っています。

また、太平洋戦争末期の1945年(昭和20)には
中国地方の軍政を統括するための
中国軍管区が編制され、庁舎に師団司令部が
使用されますが、8月6日の原爆投下により
施設は壊滅しました。

現在、敷地跡は広島城址公園として
整備されていますが、司令部建物の
基礎部分や渡り廊下・石柱列・軍用地境界標・
地下司令部などが多く残されており
簡単に見学することが出来ます。


広島城にやってきました↓


おピンちゃん先生お手製の
ピン太郎とプン太郎も
広島へやってきております(笑)


司令部庁舎の基礎部分です↓



庁舎を取り囲むように石柱列も
残っています(抜粋)↓



付属建物の基礎部分です↓



庁舎と付属建物の間には
渡り廊下が残っています↓
P1140890.jpg


少し離れたところに、もう1つ
建物基礎が残っています↓



建物を囲むようにして石柱列が
並んでおります↓



関連する遺構であるものと思われます↓



敷地の東西には軍用地境界標も
残っています。

まずは敷地の東側です↓
P1140903.jpg

続いて西側です↓
P1140885.jpg


敷地の南端部分には
中国軍管区の地下司令部が
残っています↓


内部の様子です↓


通風口も残っています↓



この後は、原爆関連遺跡を探訪して
銀山町の料亭でおいしいお酒と
アナゴ・牡蠣を堪能したのでした~


【収録遺構】
 陸軍第五師団
 師団司令部
 (広島大本営,陸軍中国軍管区司令部)

  建物基礎 3箇所
  地下施設 1箇所
  軍用地境界標 2本
  その他 4箇所

【探訪情報】
 2015.11.20  第1回探訪

 歩数(指数) 1,388歩(100)


詳細は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★


それでは、またお会いしましょうっ♪
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皆様、水曜日をいかがお過ごしでしょうか。
12月に入り、朝夕の気温がいよいよ1ケタ台に
なってきましたね。自分自身を含め、
体調管理には気を付けたいところです。

さてさて、本日は「祐実軍團」軍報の
第45弾といたしまして、神奈川県鎌倉市の
一部が設定されていた横須賀軍港境域の
遺構を2つばかり紹介させていただきますね。


横須賀軍港境域は、横須賀市におかれた
横須賀海軍鎮守府が統括した
横須賀軍港の土地境界を決定するものとして
1896年(明治29)に条項が設けられました。

軍港境域と定めた場所では一般人の
立ち入りが厳しく制限され、
その範囲を明確にするための
軍港境域標が境域の境界線に
設置されました。

鎌倉市についても、一部分が
横須賀軍港境域に定められていたため、
軍港境域標が設置されており、
このうち2本の残存を確認しています。


ハアハア、六浦の林道を歩いております↓


今回の探訪も、重鎮中の重鎮である
いっちゃん先生とOKN先生と廻ってます★
三等兵と同好会を育ててくれた
我らの腕と足に相当する方々ですっ。


1つ目の境域標は、十二所果樹園の敷地内に
残っていますが、状態は悪いです・・・↓



2つ目の境域標は、光触寺の裏手から延びる
林道沿いに残っています↓


こちらの境域標は、1つ目に比べて
設置標高が低く、海風を受けにくいからか
状態は非常に良好ですよっ★


【収録遺構】
 海軍横須賀軍港境域(鎌倉市)

  軍用地境界標 2本

【探訪情報】
 2014.11.22  第1回探訪
 2015.10.31  第2回探訪

 歩数(指数) 約30,000歩(408)


詳細は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★


それでは、またお会いしましょうっ♪
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