戦争遺跡のご紹介やホームページの制作状況などを綴っていきます♪

総軍BLOGへようこそっ!

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祐実総軍三等兵

Author:祐実総軍三等兵
全国に残る戦争遺跡を探訪して
記録することを生き甲斐とする
祐実総軍三等兵でございます★
稚拙な内容ではございますが、
これまで調べてきた戦争遺跡を
ブログ・ホームページで紹介を
させていただいておりますっ♪

よろしくお願いしますm(__)m

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皆様、水曜日をいかがお過ごしでしょうか。
三等兵は相変わらずつまらない平日を
過ごしております・・・


さてさて、本日は祐実軍團「軍報」の
第62弾といたしまして、
神奈川県横須賀市におかれていた
東京湾要塞の三軒家砲台の
遺構群をご紹介させてくださいませ。


三軒家砲台は東京湾要塞の 1つで
1895年(明治28)12月に竣工し、
翌年に27センチカノン砲を4門と、
12センチ速射カノン砲を2門据付けて
日露戦争の戦備につきました。

大正に入り、関東大震災が発生すると
砲座の前面部分にあたる胸檣が
地すべりを起こして崩落したり、
司令所や観測所が崩壊したりと
甚大な被害を出してしまいましたが
東京湾要塞復旧建設要領に基づいて
復旧工事を行ったことで、
1927年(昭和 2) 7月に復旧しました。
復旧の際、照明所も新たに設け
探照灯も配備されましたが
1934年(昭和 9) 8月に除籍となりました。

現在、砲台跡地は県立観音崎公園として
整備されており、掩蔽部や弾薬庫などは
入口が封鎖されていますが、砲座をはじめ
観測所や井戸なども良好な状態で
残存しており、見学が可能です。


走水でご飯を食べてスタートです↓



門柱です↓



27センチカノン砲の砲座です(抜粋)↓



各砲座間には横檣が設けられており
下部に砲側弾薬庫が残ります(抜粋)↓



背檣付近には井戸跡の区画が残ります↓



水槽です↓



水槽脇の階段を上ると見張所が残ります↓



両側に入口をもつ掩蔽部も残ります↓



観測所です↓



観測所掩蔽部です↓



観測所から少し奥に下がると
12センチ速射カノン砲の砲座が
2つ残っています(抜粋)↓



【収録遺構】
 東京湾要塞三軒家砲台

  門柱 1箇所
  砲座 6箇所
  地下施設 6箇所
  その他 4箇所

【探訪情報】
 2005.05.29  第1回探訪
 2007.01.02  第2回探訪
 2014.05.24  第3回探訪

 歩数(指数) 約10,000歩(999)


何か、雑なご紹介で申し訳ありません。
後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★


それでは、おやすみなさいませZzz
←応援してくださいっ♪
皆様、月曜日をいかがお過ごしですか?
何か、関東地方は夜になってから
雹が降ったりして変な天気ですね・・・

さてさて、本日も色々とございまして
雑記でのブログ更新となってしまうのですが
お許しくださいませ・・・

本日は、とある方からのリクエストにより
横須賀市の貝山の2層部分に位置する
地下壕内部図を掲載いたしますね。

当方の関係者様はよくご存じの案件です。
もっとも、今回のリクエストも
当方の関係者様からですが(笑)


1つ目の地下壕です↓


内部図です↓



2つ目の地下壕です↓


内部図です↓



3つ目の地下壕です↓


内部図です↓



ちゃんとホームページに公開していく
つもりでいますので、
もう少しお待ちくださいね(笑)


それでは、おやすみなさいませ★
←応援してくださいっ♪
皆様、週末をいかがお過ごしでしょうか。
三等兵は、昨日・今日のほとんどを
地下壕の内部図制作に充てました・・・

かなり頑張ったのですが・・・
貯め過ぎてしまっていて終わらない(汗)
そして、めでたく19時以降になって
「サザエさん病(=仕事イヤイヤ病)」を
発症してしまい、集中力が切れました・・・

申し訳ないのですが、本日も
「雑記」形式でブログの更新と
させてくださいませ m(_ _)m

せっかくなので、地下壕ネタを。

これまでに三等兵が記録してきた
地下壕群の中で、合算総延長が
最大を誇った地下壕を
1つご紹介させていただきます。

当方の関係者様は、既にお判りでしょうが
千葉県富津市と君津市に跨って
おかれていた木更津第二海軍航空廠の
佐貫地下軍需工場です↓



木更津第二海軍航空廠は、
海軍航空機の造修と補給を行うことを
目的として、木更津に設置されていた
横須賀海軍航空技術廠の出張所を
母体に1941年(昭和16)に開設されました。

太平洋戦争が始まると、航空機の
消耗が激しくなり、木更津の本工場が
拡張を迫られて君津にも分工場が
建設されていきますが、
1944年(昭和19)に入ると戦局が逼迫し、
空襲が危惧されたため、両工場の
分散疎開が開始され、周辺の学校や
寺などに機能を分散させましたが
この翌年に入ると、工場の機能維持と
分散していた各工場の集約を目的として
君津市と富津市の境界にあたる山に
地下工場が建設され、坑道の完成部分に
工作機械を搬入し、実際に一部の坑道では
操業しています。


発動機(飛行機エンジン)の試運転を
実際に行っていた坑道です↓



戦後、これらの地下工場は山林内に
放置された状態が続いていましたが
その後にゴルフ場の建設工事が開始され
残念なことに現在は半分以上が
消失しています・・・


拙ホームページでも時間限定で
公開をさせていただいておりますが、
これが地下工場の全体図です↓


全体図に表記されている
各工場別(仮称)の坑道延長の
内訳は以下のとおりとなります↓

 第一工場  1,255.3メートル
 第二工場   146.0メートル
 第三工場  3,344.5メートル
 第四工場   215.0メートル
 第五工場   468.5メートル
 第六工場   473.0メートル
 第七工場   297.5メートル
 第八工場   795.7メートル
 第九工場   272.8メートル
 第十工場  1,465.0メートル
 第十一工場  297.7メートル
 ------------------------------------
 総合計    9,031.0メートル


我々の能力誇示をするつもりは
まったくありませんが、
この内部図は、ほぼ「正確」です★

ここまで詳細な全面図をウェブ上で
出しているのは、私共のホムペと
黒魔先生のサイトでしか
見たことがありません。
(これくらいは自慢しようかな・・・)

でも、我々の踏査の結晶である
「内部記録」も虚しく、
建設意義を問われる
ゴルフ場の建設によって
第4工場・第5工場・第6工場が
完全に埋没してしまい、第3工場や
第7工場・第8工場も一部が埋もれ
もはや原形をとどめていない状態です。
残念です・・・。



何か、ブログを書いているうちに
ブルーになってきてしまいました。。。
「ふて寝」しますっZzz

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皆様、土曜日をいかがお過ごしでしょうか。
三等兵は、教導先生と前回に巡った
千葉県一宮町の洞窟陣地の内部図を
昨日の夜中から作っております・・・
(今回の週末を逃すと遠征になるので
時間が捻出出来ないんです・・・)

現在、コーヒーブレイク中ですので
息抜きがてら、雑記形式でブログの
更新をさせていただきますねっ★


今回は教導先生とマンツーで
巡ってまいりましたっ★↓



三等兵の士気も大いに高く、
全て「徒歩」で巡ったわりには
機動力が高かったものと思います。
(各陣地の内部調査では、○○の
落下で士気が大いに落ちましたが)


本部がおかれていた陣地の内部です↓
P1170159.jpg


内部図を暫定で掲載しますね↓


陣地の総延長は、
約350メートルを計測しました。

この数字は、三等兵が記録してきた
房総半島の陣地の中では
今のところ最大となっております。

googleマップと合成すると
こんな感じになります↓



ちなみに、三浦半島では横須賀市に
おかれた長浜陣地の502.7メートルが
最長ですよ(洞窟砲台を除く)↓


ご参考までに長浜陣地の内部図も
一時的に載せておきます↓



遺構としては非常に稀である
露天式狙撃口で講義を開催中の
教導先生↓


このお方は、本当に凄いっ★
三等兵なんか、金魚のフンみたいに
ただくっついているだけで・・・

教導先生との思い出にふけって
ガサゴソ写真を漁っていたら
9年前の写真が出てきました(笑)↓


狙撃口から様子をうかがっている
教導先生をかこんで、左側に
イキがって写ってるのが三等兵です。
(この当時は四等兵です)

この編成も、ある意味「最強」です(笑)


さてさて、内部図の制作に戻ります。
皆様、よい週末をっ★
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皆様、木曜日をいかがお過ごしでしょうか。
三等兵は、家のことがありまして
今日は早帰りでございます(笑)
毎日、これならいいのにな。。。

さてさて、本日は阪奈軍團「軍報」の
第35弾といたしまして、前回の続きとなる
大阪陸軍兵器補給廠川西分廠の
遺構群のうち、兵庫県川西市に
位置しているものをご紹介させてください。


前回の繰り返しとなってしまいますが、
川西分廠は、陸軍で使う兵器類や
軍需品などの修理や保管を行っていた
大阪陸軍兵器補給廠の分廠として
1942年(昭和17)に設置されました。

ここでは、砲弾や弾薬などが保管され
終戦まで機能が存続していましたが、
終戦後は一時的にアメリカ軍が
接収したのち現在は陸上自衛隊の
川西駐屯地の敷地へと変遷しています。

現在、敷地跡地は自衛隊の川西駐屯地や
自衛隊阪神病院などに変遷していますが
敷地外周に軍用地境界標が
いくつか残っています。


川西市にお邪魔しております↓
P1160513.jpg


敷地の東側にあたる道路沿いに
軍用地境界標が残ってます。(抜粋)↓



もう1本載せますっ(抜粋)↓



以降は、当方の関西探訪時の
「教科書」ともいえる盡忠報國様の
大日本者神國也を参考に
記録作業を行いましたっ★


この北側には工員官舎が
おかれており、当時の建物が
残っております(抜粋)↓


現在も住宅に活用されているので
ここでは場所を明記しません。


敷地外周にも軍用地境界標が
残っていますっ(抜粋)↓



おまけですっ★↓


最近はおピンちゃん先生に洗脳され
こういうものが愛おしく感じますねっ♪


【収録遺構】
 大阪陸軍兵器補給廠川西分廠
 (川西市)
   建物 2棟
   軍用地境界標 9本

【探訪情報】
 2008.03.01  第1回探訪
 2016.03.06  第2回探訪
 歩数(指数) 約18,000歩(146)


詳細は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★


それでは、おやすみなさいませっ★
←応援してくださいっ♪
皆様、水曜日をいかがお過ごしでしょうか。
三等兵は、昨日の仕事でダウン中です。
午後から行くことにします。
いよいよ、宣戦布告か?!


さてさて、本日は「阪奈軍團」軍報の
第34弾といたしまして、
大阪陸軍兵器補給廠川西分廠の
遺構群のうち、兵庫県宝塚市に
位置しているものをご紹介させてください。


川西分廠は、陸軍で使う兵器類や
軍需品などの修理や保管を行っていた
大阪陸軍兵器補給廠の分廠として
1942年(昭和17)に設置されました。

ここでは、砲弾や弾薬などが保管され
終戦まで機能が存続していましたが、
終戦後は一時的にアメリカ軍が
接収したのち現在は陸上自衛隊の
川西駐屯地の敷地へと変遷しています。

なお、敷地の大半は川西市に
位置していますが、一部が宝塚市にも
跨っており、軍用地境界標が
わずかに残っています。


宝塚市の山本野里地区にお邪魔してます↓



軍用地境界標が残っております↓


風化が著しいうえに、表面部分に
棒を設置しているために見づらいですが
「陸軍」の文字と、通し番号がかすかに
見ることが出来ます。


畑の中にも引き抜かれたものと思われる
標柱が転がっております↓


なんと、もったいない・・・


少し北上した道路沿いにも
軍用地境界標が残っています↓


こちらは、通し番号は判りませんが
「陸軍」の文字がはっきり見えます。


【収録遺構】
 大阪陸軍兵器補給廠川西分廠
 (宝塚市)

  軍用地境界標 3本

【探訪情報】
 2016.03.06  第1回探訪

 歩数(指数) 1,029歩(100)


詳細は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★

次回は川西市に残る遺構を
ご紹介させてくださいませ。


それでは、よい1日をっ★
←応援してくださいっ♪
皆様、3連休の最終日を
いかがお過ごしでしょうか。

明日から仕事なのですね・・・
三等兵はここにきて士気が
「0」となりました。。。

今日は、教導先生とタッグを組んで
千葉県の一宮町と睦沢町におかれた
陸軍第一四七師団の
抵抗拠点陣地を巡ってきました。

朝の10時から総攻撃(笑)を開始し
飯も食わずに19時まで延々と
調べまくりましたっ★

三等兵の今日の士気は
非常に高かったですぜっ!
(○○の落下攻撃に相当な
気力を奪われましたが・・・)

記録出来た遺構数は以下となります。

【一宮町】
 砲座 3箇所(うち露天式銃座1)
 地下壕 11区画(新規1区画)
 その他 1箇所

【睦沢町】
 地下壕 9区画(新規2区画)
 その他 2箇所


教導先生、お疲れ様でございました。
10年前の強行軍を思い出しましたっ!
今日の総歩数は29,188歩でした(笑)

当方、明日は確実に死んでると
思いますぜ(笑)


とりあえず、配置図と写真の結びつけが
完了したので本日は眠りにつきます。。。


【本日の写真】
三等兵の助言がたまたま当たった
陸軍第一四七師団の洞窟陣地
(千葉県長生郡一宮町:水路のとこ)↓


教導先生の総攻撃が大成功した
陸軍第一四七師団の洞窟陣地
(千葉県長生郡睦沢町:番犬のとこ)↓



それでは、おやすみなさいませっ★
←応援してくださいっ♪
皆様、3連休の折り返し地点を
いかがお過ごしでしょうか。

三等兵は、ホムペの制作に
本日を充てております。

さてさて、本日は阪奈軍團「軍報」の
第33弾といたしまして、
兵庫県伊丹市におかれていた
陸軍獣医資材廠大阪出張所の
遺構を1つだけご紹介させてください。


獣医資材廠は、馬をはじめとする
軍用の動物や医療資材などの
購買や補給・調査・研究などを行う
機関で、1940年(昭和15)に
東京の立川に設置され、
その出張所が大阪におかれていました。

1943年(昭和18)に入ると、大阪出張所の
敷地が手狭であったことから、
現在の伊丹市に用地を買収し
移転しました。

翌年の1944年(昭和19)には、
これまでの「出張所」から
「支廠」に昇格して終戦まで
機能が存続しました。

現在、敷地跡地のほとんどが
宅地化されており、全く面影が
ない状態ですが、当時の門柱が
1つだけ残り、案内板を設けて
保存されています。


伊丹市の中央を流れる
天神川付近にお邪魔しております↓



北野1丁目の信号付近に
当時の門柱が残っております↓



背面部分です↓



【収録遺構】
 陸軍獣医資材廠大阪出張所
 (大阪陸軍獣医資材支廠)

  門柱 1箇所

【探訪情報】
 2016.03.06  第1回探訪

 歩数(指数) 3,392歩(100)


詳細は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★


明日は、教導先生と一緒に
千葉県の一宮町に掘削された
陸軍第一四七師団の陣地群を
猛攻(笑)してきますっ♪


それでは、よい連休をっ★
←応援してくださいっ♪
皆様、いかがお過ごしでしょうか。
今日をしのげば3連休という方々も
多いのではないでしょうか。

さてさて、時間も時間なので、
本日は阪奈軍團「軍報」の
第32弾といたしまして
大阪府泉佐野市におかれていた
明野陸軍飛行学校佐野分教所の
遺構を簡単にご紹介させていただき
眠りにつかせていただきたいと
思いますっ・・・


明野陸軍飛行学校は、戦闘機を使った
射撃や戦技に関する教育と研究を
行う目的で1921年(大正10)に開設し、
操縦者を大量に養成する必要が
出てきたことから、1944年(昭和19)に
その分教所が設置されました。

太平洋戦争の末期は、飛行学校を
軍隊化して編制された
明野教導飛行師団の拠点となり、
特攻の訓練や出撃の中継地点として
施設が使用されました。

現在、跡地は農地や住宅地と
なっているため、当時の面影が
ありませんが、門柱や建物基礎などの
遺構が少しだけ残っています。


南海電車の羽倉崎駅に来ております↓


ここから、おピンちゃん先生を
鼓舞しつつ、記録に臨んでいきます。
(この時点でピン太郎とプン太郎を
前回の姫路調査で行方不明になった
事実を知って士気がガタ落ちです)


住宅の一角にまぎれて、当時の
門柱が片方だけ残っています↓



当時の建物跡です↓



格納庫の基礎部分でしょうか・・↓



当時の排水路です↓



この他に、個人的に怪しいと
判断した遺構をあげておきますね。
(確証はありません・・・)↓
P1160429.jpg
P1160440.jpg


【収録遺構】
 明野陸軍飛行学校佐野分教所

  門柱 1箇所
  建物基礎 2箇所
  その他 1箇所

【探訪情報】
 2008.03.12  第1回探訪
 2016.03.05  第2回探訪

 歩数(指数) 約17,000歩(110)


詳細は、後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★


それでは、おやすみなさいませ。
←応援してくださいっ♪
皆様、木曜日をいかがお過ごしでしょうか。

本日は「予約投稿」によりまして
祐実軍團「軍報」の第61弾となる
横須賀海軍軍需部の日向倉庫の
遺構を簡単にご紹介させていただきます。
(本来は4日前に掲載予定だったヤツです)


海軍軍需部は、兵器や燃料・物資などを
全国の生産工場などから収集し、
前線にこれらを補給する重要な
役割を果たしていた部署で、
物資を送り出すまでの間は
一時的な保管が必要であるため
沢山の保管倉庫が建設されました。
(軍需部のたびに毎度のご説明で恐縮です)

このうち、日向倉庫は重油などの燃料類を
保管する目的で設置され、
貯蔵庫と付属施設がおかれました。

戦後、敷地はアメリカ軍に接収されて、
現在は一部が返還されましたが、
ほとんどは引き続きアメリカ軍の
倉庫に使用されています。
また、敷地周辺には軍用地境界標や
地下壕が現存しています。


神奈川県横須賀市に来ております↓



アメリカ軍倉庫の敷地内に
封鎖された大きな地下壕が
残っております↓


敷地内に入ることは出来ませんが
これ以外にも当時の遺構が
多くあるものと思われます。


敷地の外側にも地下壕が残っています↓



内部の様子です↓


この当時は1箇所だけ開口部があり
何とか中に入れたのですが
残念ながら深く水没していて
敗走してしまいました・・・

結局、これが命取りとなり
現在は全ての入口が厳重に
封鎖されてしまい、内部の状況や
構造をうかがい知ることは
出来なくなってしまいました。。。


敷地の外周には、軍用地境界標の
支柱が現存しています(抜粋)↓



軍用地境界標もセットで残ります。
タイプとしては2種類あり
「海軍用地」と入っているものと
海軍記号が入っているものとが
混在しています。なお、いずれも
コンクリート製となっております。

1つ目のタイプの標柱です(抜粋)↓


もう1枚載せます(抜粋)↓


2つ目のタイプの標柱です(抜粋)↓


もう1枚載せます(抜粋)↓


2つ目のタイプの標柱群は
土砂に埋もれているものが多く
記載内容の確認が困難です。


【収録遺構】
 横須賀海軍軍需部
 日向倉庫

  軍用地境界塀 2区画
  軍用地境界標 13本
  地下壕 2区画

【探訪情報】
 2006.05.05  第1回探訪
 2007.05.02  第2回探訪
 2014.08.13  第3回探訪

 歩数(指数) 約25,000歩(999)


後ほどホームページ内で
ご紹介させていただきますねっ★


それでは、よい1日をっ!
←応援してくださいっ♪

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