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戦争遺跡のご紹介やホームページの制作状況などを綴っていきます♪

総軍BLOGへようこそっ!

♦ プロフィール

祐実総軍三等兵

Author:祐実総軍三等兵
全国に残る戦争遺跡を探訪し
記録することを趣味とする
祐実総軍三等兵ですっ★

稚拙な内容ではございますが
これまでに関係者の皆様方と
見てきた戦争遺跡を中心に、
ブログ・ホームページなどで
順次ご紹介をしていきます♪

よろしくお願いしますっ★

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皆様、いかがお過ごしでしょうか。


昨日の富津・木更津探訪の疲れを
ひきずってしまい、仕事でもないのに
腑抜けにダラダラと過ごしてます(笑)


今日は、今後の探訪計画も
事前の下調べもせずに、
終日こんな感じでやっていこうかと
思っているところです。


さて、本日は和泉軍團「軍報」の
第105弾といたしまして、
群馬県伊勢崎市におかれていた
中島飛行機の伊勢崎工場の
モニュメントを1つご紹介します↓




中島飛行機は、1917年(大正 6)に
創設された民間の航空機製作会社で
特筆に値する製作戦闘機に「隼」や
「疾風」などがあり、戦前の日本を
代表した陸軍・海軍御用達の
戦闘機製造会社として
「零戦」などの設計で有名な
三菱重工業と双璧をなします。

昭和に入ると近代戦の主力が
航空機となり、戦闘機の需要が
急激に伸び、群馬県の太田市に
かかえていた工場だけでは
生産が間に合わず、全国各地に
工場が設置され、その中で
伊勢崎工場は、海軍が使う
戦闘機の機体を組み立てた
小泉製作所が管轄する部品工場として
1942年(昭和17) 9月に開設し、
末広町に第一工場・平和町に第二工場が
設置されました。

ここでは、ボルトやナット・油圧関連の
部品が製造され約6,000人の工員が
作業に従事していましたが、
太平洋戦争における最後の
本土空襲といわれる
1945年(昭和20) 8月15日の
伊勢崎空襲で被災し終戦となりました。

戦後、伊勢崎工場は富士重工の工場に
変遷し、日本のモータリゼーションの
先駆けとなった軽自動車「スバル360」を
最初に生産して有名になりましたが
現在は第一工場が富士重工の関連企業・
第二工場は商業施設になり、
第二工場の東側の側面部分が
移設されており、商業施設内に
モニュメントとして保存されています。



おピンちゃん先生と一緒に
新伊勢崎駅に到着しております↓



ここから10分ほど歩いて
モニュメントが保存されている
とりせんに向かっていきます↓



とりせんの入口付近に
第二工場の東側の側面部分が
移設保存されています↓



案内板も設置されていますが
中島飛行機ではなく、富士重工の
建物跡として触れていました↓



もっとも、第二工場は1912年(明治45)に
建設された、この前身の上毛撚糸の工場を
中島飛行機が買い取ったものなので
厳密には中島の建物でもないですが・・・


残念ながら、保存されているのは
壁面部分だけなので薄っぺらいです↓



新伊勢崎駅から第二工場方向を
見るとこんな風景が広がっています↓



少し歩き疲れたので、帰りは
太田駅で普通電車を降りて・・・↓



特急りょうもう号に乗り換えて
本拠に帰還いたしました↓



【収録遺構】
 中島飛行機小泉製作所
 伊勢崎工場

   その他 1箇所

【探訪情報】
 2018.11.30  第1回探訪

 歩数(指数) 未計測(100)


後ほどホームページ内でも
ご紹介させていただきますねっ♪


それでは、またお会いしましょうっ★



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皆様、いかがお過ごしでしょうか。


昨日の朝は部屋が寒くて
ストーブをつけてブルブルしてましたが
外の気温は高かったですねっ!

西日本の一部地域などは
25℃を超える夏日だったとか・・・

冬の時期は、我々にとっては
軍跡探訪シーズンですが、
私は寒いのが不得意なので
春の陽気で草は枯れ枯れ・
日照時間は12時間以上は
欲しいなどといった
自己中心的な要望をします(笑)


さて、本日は和泉軍團「軍報」の
第104弾といたしまして、
茨城県石岡市におかれていた
第一〇八一海軍航空隊石岡分遣隊の
飛行機掩体を1つだけご紹介します↓




第一〇八一海軍航空隊は、
航空用需品の空輸や航空機の
輸送・護衛を行う部隊として
1944年(昭和19)に編制され、
主に本土内や硫黄島に向けた
輸送を担当しました。

資料が乏しいため、詳細は
判っていませんが、太平洋戦争の
末期に、この分遣隊が使用する
航空基地が現在の石岡市に建設され
長さが1,200メートル・幅が300メートルの
滑走路と30基以上の飛行機掩体が
完成したようです。

現在は住宅や農地・商業施設などに
変遷して面影がなくなっていますが
滑走路の区画が判るほかに
土製の飛行機掩体が残ります。



今回、臨時に参戦してくれた
マッキー先生と一緒に
石岡市内にお邪魔しています↓



滑走路跡の北東にあたる
藪の中を少しだけ入ります↓



林の中に土製の飛行機掩体が
残っています↓



飛行機掩体は馬蹄形に
土が盛られただけの
無蓋式に分類されます↓



実際に行って見てみると
区画がハッキリと判るのですが、
写真では何だか判りませんね・・・↓



上の写真を補足すると
黄色のラインが盛土部分です↓



資料によると、飛行機掩体は
このほかに同様のものが
2基残っているようなので
周辺を捜索してみましたが、
商業施設の建設によって
壊されてしまったようです・・・↓



【収録遺構】
 第一〇八一海軍航空隊
 石岡分遣隊

  飛行機掩体 1箇所

【探訪情報】
 2018.11.26  第1回探訪

 歩数(指数) 未計測(88)


後ほどホームページ内でも
ご紹介させていただきますねっ♪


それでは、またお会いしましょうっ★



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皆様、いかがお過ごしでしょうか。


最近は、探訪したいところが
アレコレと出てきてしまい、
そのわりには時間がなくて
入念な下調べをしないまま
現地に赴いていることが多く、
そんな自分に少しゲンナリしています。


そこに追い打ちをかけるように
遺構名称の、いわゆる「揺れ」や
「私はしっかりと段取りしましたが
あなた方はしてません」みたいな
間接的な批判なんかもございまして。


こういうことにいちいち反応する私も
ちょっと器が小さいと思うのですが
我々に対する批判の公言は
我々くらいの年月をかけて
多くの軍跡を探訪してから
言って欲しいもんですなっ!


おっと、大好きな仕事以外では
初めてこういう物言いを
ここに書いたかもしれません・・・


さてさて、今回は祐実軍團「軍報」の
第204弾といたしまして、
神奈川県中郡二宮町に
掘削された第八十四師団の
洞窟陣地の一部をご紹介します↓




第八十四師団は、1944年(昭和19)に
姫路で編制された特設師団で、
第一総軍の第十二方面軍に
所属していた第五十三軍の
隷下部隊です。

日本の敗戦を決定的にした
マリアナ沖海戦での敗退によって、
アメリカ軍はコロネット作戦と呼ばれる
日本本土への上陸作戦を計画します。
その内容は、神奈川県の相模湾と
千葉県の九十九里浜より上陸して
東京に攻め入るというもので、
これに対して日本軍は
本土での決戦に備えるために、
第五十三軍を相模湾から
上陸された場合の沿岸防備に充て
その中で第八十四師団は
小田原に司令部をおき、周辺地域の
防衛にあたりました。

このなかで、二宮町については
隷下部隊である歩兵第二〇一連隊が
守備する抵抗拠点陣地が
構築されており、現在も調査を
継続していますが、山西・一色の
山林内に洞窟陣地の残存を
確認しています。



壕探訪のスペシャリストが集結して
二宮方面軍が発足しました(笑)↓



まずは山西地区を見ていきます↓



成就院の裏手の山に
最初の陣地が口を開けています↓



坑道の総延長は38.5メートルと
小規模ですが、しっかりと造られた
部分も残っています↓



陣地の内部図です↓

※我々のホームページへの
 掲載と同時に削除します。


山を南東に進んでいきます↓



2つ目の陣地が口を開けています↓



内部は階段跡が残っていることから
階層構造であることが判りますが
奥の方は深く水没しており
全てを見ることが出来ませんでした↓



2つ目の陣地の内部図です↓

※我々のホームページへの
 掲載と同時に削除します。


参考にさせてもらった本は
壕内を隅々まで計測しており、
水没で到達できなかった部分を
加味すると約60メートルほどの
坑道延長がありました。


次は、通称「蔵海道」といわれる地区の
陣地の捜索に入っていきます↓



ここでは、2箇所の陣地を
見つけることが出来ましたが
ほぼ埋没しており、壕内に
入ることが出来ませんでした・・・↓




川匂地区に入っていきます↓



町民運動場付近の山にも
陣地と認められる壕の入口が
ありましたが、こちらも残念ながら
埋没していました・・・↓



時間が圧してしまいましたが
ガストで遅い昼食を取りました↓



遅い午後の部は、一色地区から
スタートします↓



牧場の東側に位置する山林内に
埋まりかけた陣地の入口が残ります↓



入口付近は土砂で苦労しましたが
中の造りは非常に良いです↓



坑道の総延長は46メートルほどで
総じて、この界隈の陣地の規模は
さほど大きくないようです↓



陣地の内部図です↓

※我々のホームページへの
 掲載と同時に削除します。


少し北上していきます↓



山林内に陣地の入口が
口を開けています↓



こちらは壕内が水没していましたが
長靴で何とかまわれました↓



陣地の総延長は40.5メートルで
ここも規模は小さいようです↓



陣地の内部図です↓

※我々のホームページへの
 掲載と同時に削除します。


そのまま道を下っていくと・・・↓



大きい入口の壕が道路沿いに
残っています↓



こちらは単純な横穴ですが、
掘り込みが人工的ですので
陣地に関連するものと見ています↓



ふるさとの家の背面の山にも
規模が大きそうな陣地がありましたが
入口が塞がれています↓



この南東に位置する平田窪地区にも
陣地が残っていましたが
日没のため踏査を断念しました・・・↓



【収録遺構】
 陸軍第八十四師団
 抵抗拠点陣地(二宮町)

   地下壕 9箇所

【探訪情報】
 2017.12.17  第1回探訪

 歩数(指数) 未計測(100)


後ほどホームページ内でも
ご紹介させていただきますねっ♪

また、今度の週末に再び
スペシャリスト達が集結し、
二宮地区の陣地探訪の続きを
再開する予定ですっ!


それでは、またお会いしましょうっ★



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皆様、いかがお過ごしでしょうか。


いよいよ、2018年も残すところ
1か月を切りました・・・

私の休職期間も2か月を切り
おろおろする毎日です(笑)

今のところ、順調なのは
探訪だけですかねっ★


さて、本日から12月に入りましたので
日頃よりご愛顧いただいております
私どものホームページである
祐実総軍 ― 戦争遺跡データベース」の
11月度のアクセス統計を
掲載させてくださいませ。




2018年11月度の統計は以下でございました↓

戦争遺跡調査研究軍―祐実総軍
2018年11月度アクセス統計
 (2018.11.1~2018.11.30)

【総アクセス数】
 15,193アクセス(ブログページ含む)

【最高アクセスカウント日】
 2018年11月17日(土)  985アクセス

【最低アクセスカウント日】
 2018年11月25日(日)  330アクセス

※アクセスカウンターの数字とは
 異なる方法での集計となります。

【アクセス元都道府県ランキング】
  1.東京都(10.22%)
  2.神奈川県(10.03%)
  3.大阪府(8.42%)
  4.北海道(8.07%)
  5.千葉県(7.81%)
  6.埼玉県(7.40%)
  7.愛知県(6.21%)
  8.静岡県(6.18%)
  9.岩手県(5.02%)
 10.山口県(4.26%)

【アクセスページランキング】
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【掲載遺構数】
 4,380 (フルブラウズ時は4,472)



11月も多くの皆様に見ていただき、
本当にありがとうございます m(_ _)m


11月から来年の2月までの期間は
大好きなお仕事を休業して
新規案件の探訪とホームページの
更新作業に専念しているところですが
探訪側に偏ってしまっており、そちらの
まとめ作業に追われてしまい
想定よりも遅滞しまくっています(汗)


また、仕事の休業期間中も
規則正しい生活を維持しないと
職場に復帰出来なくなりそうで、
徹夜して作業することを止めたため
PCに座っている時間も以前に比べ
少なくなっています(涙)


そして今月(12月)も第3週あたりから
東海・近畿・中国地方の探訪を
派手にやらかす予定でいるので
本格的な更新は来年の1月に
なってしまいそうです・・・


年内までは、少量での更新と
なってしまいそうですが、
引き続き頑張ってまいります★


【本日の写真】
茨城県石岡市におかれていた
第一〇八一海軍航空隊の
石岡分遣隊の飛行機掩体↓



群馬県伊勢崎市におかれていた
中島飛行機伊勢崎製作所の
建物モニュメント↓



千葉県八街市におかれていた
下志津陸軍飛行学校八街分教所の
軍用地境界標↓



千葉県夷隅郡大多喜町に掘削された
陸軍第一四七師団の洞窟陣地↓



それでは、またお会いしましょうっ★



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皆様、いかがお過ごしでしょうか。


ここのところ、関東地方は季節外れの
暖かい気候が続いているようです。

でも、本拠は室温が低いため
寒がりの三等兵にとって
それほど暖かくは感じません・・・


さて、本日は美恵軍團「軍報」の
第80弾といたしまして、
長野県長野市におかれていた
長野飛行場の遺構をご紹介します↓




長野飛行場は、長野市の都市計画事業の
一環で設置された公共の飛行場で、
1939年(昭和14)に開業しました。

その後、太平洋戦争での戦局が悪化し
国体護持と国家の機能維持を目的として
松代大本営の建設工事が開始されると
その一環で長野飛行場は陸軍に
接収されましたが、敷地の拡張や
飛行機掩体などの建設工事が
終わったところで終戦を迎えました。

終戦後、長野飛行場は
1990年(平成 2)まで民間飛行場に
引き続き使用されましたが、
現在は長野市立犀陵中学校や
住宅地などに変遷しており、
わずかに飛行場時代の遺構が
残ります。



我が総軍大元帥と一緒に
長野駅に到着いたしました↓



大元帥が一緒ですので、
御車となるタクシーの力を借りて
川合新田地区に向かいます↓



飛行場の東側にあたる県道付近に
門柱が残っています↓



門柱から少し進んだところに
長野飛行場の碑がおかれています↓




市営団地付近に当時の区画の
名残があります↓




市営団地の北側に、昭和22年の
航空写真に写っていると思われる
建物が1つあります↓



御車を待たせているので
急いで戻り、次の案件に進みます↓



【収録遺構】
 長野陸軍飛行場
 (松代大本営長野飛行場)

  門柱 1箇所
  建物 1棟

【探訪情報】
 2018.09.09  第1回探訪

 歩数(指数) 未計測(100)


後ほどホームページ内でも
ご紹介させていただきますねっ♪


それでは、またお会いしましょうっ★



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